PentiumMノート現役で使い倒した

日常や旅行や気になったことや技術的某について記録するブログ。ブログ名は原点回帰しました。

30歳になって、20代の振り返り(その6)

前回の記事の続きで、20代の振り返り(社会人3年目、29歳)を書いていきたいと思います。これが20代振り返りの最終章です。これまで20代後半については辛いことをたくさん書いてきましたが、20代の最後、一部30になってからの現在まで書きます。もはや直近なので振り返りって感じでもないですが。

社会人3年目

ちょうど1年ほど前、教員は2年目になりました。先に仕事の話を書こうと思います。この年、教員2年目になって遂に元指導教員が絡んでいるプロジェクトが終了し、完全に私は元指導教員と間接的な上下関係すら無い、仕事上全く関係ない間柄になりました。

そのこともあってか、それまで元指導教員が出てくる会議を避けていて*1、それでも元指導教員が仕事に絡んでくることに名前が出るだけでもウンザリしてたんですが、だんだん元指導教員の名が仕事上出てくることも無くなり、日常的に元指導教員の存在を意識することも減り、それによってその後の影響を考えて、不安を抱えて鬱になることも回数が減っていきました。そういった変化が少しずつ、自分のメンタルを回復させていきました。この年のメンタルの回復を振り返っていると、前年度まではあの畜生を意識せざるを得ないことが常にあって、そのせいでメンタルの回復を妨げていたんだというのが再認識させられました。メンタル回復の変化を見ると、前年度まではストッパーが掛かっていて晴れなかったものが、この年になってから一気に晴れて、それによって濡れていた地面も急速に乾いていきました。

もっとも、良いことばかりじゃなかったです。元指導教員の存在は仕事と大いに関係していました。前年度に終わったプロジェクトの続きとなるプロジェクトの公募が存在し、それに所属するセンターで応募していましたが、その評価をする立場としてまた元指導教員が存在していました。私はそのプロジェクトのメンバーにこそなっていたものの、直接その審査の模様には関わっていないですし、間接的な上下関係が発生するような段階の手前でした。しかし、元指導教員が私の雇用の行く末を左右することには変わらず、かなり不安でした。そして、その不安は現実のものとなってしまいます。

我々のセンターの提案は不採択となりました。このときの私の心境と言ったら計り知れないです。本当に、未来の色が灰色でした。退学して直接関係なくなっても、所詮この元指導教員が存在し続けることで自分の業界での将来が邪魔され、潰されうるという事実に絶望しました。ただ、その絶望はそんなに長く続くことはなく、職場の上司から次の行き先をすぐに提案して頂けて、そこへ行くことがほぼ決まったような形となりました。いっくら、元指導教員の影響でプロジェクト雇用の道が絶たれたとは言え、自分の業界での立ち位置が無くなったわけじゃなかったのは、この悪い結果のメンタルへの影響を最小限に抑えてくれました。

ただし、これはうちのセンターの元々の設立基盤が脆弱であったこともありますが、プロジェクトが採択されなかったことで、資金源を確保できず、うちのセンターは閉鎖することになりました。こんな非情な現実を社会人3年目にして突きつけられるとは思ってもみなかったです。この結果は元指導教員の影響によるものであったというのも含めて、かなりショックでした。本当に、当時は閉鎖してしまうという実感が全く湧きませんでしたが、現在、翌年の5月の時空では本当に閉鎖してしまいました。その4でポートライナーが既に思い出になったと書いたのはこれが理由です。閉鎖することになった後、センターでは引っ越し準備等でかなりてんやわんやでした。

学会で元指導教員がいたりもしましたが、兎に角極力遠ざけてやり過ごしました*2。いること自体がもう本当に嫌でトラウマでしたが、前年の国際会議でもいたので少しは覚悟の準備ができていました。この年、センター長が変わったので、定年まであと1年のところで学会で見たくもない姿を見ることが多かったですが、これは本当に大学がまともに公益通報で動いていれば見ることが無かったはずなので、被害者がこうも苦しむのはとてつもなくおかしなことですが、ものすごく耐え難い思いをしました。

良い知らせもありました。私が前年度に発表した内容が学会で表彰され、受賞の知らせが来ました。博士課程時代に散々「能力が低い」などの侮辱を元指導教員からされ続けていて、「アカデミアは厳しいからお前では生き残れないので民間へ行ったほうが良い」という悪口まで言われていたので、プライドをズタズタに傷つけられ、自分がこの業界に残ってやっていけるのか、自分の能力は業界にいて十分なものなのか、いっくら職場では継続雇用されるように十分貢献できていたとはいえ、本気で不安が続いていました。しかし、学生時代に1度学会から表彰されたのに続いて、社会人になってからも学会で評価されたことは一つ、私の自信と、この業界に残ってて良いんだ、という自己肯定感の向上につながりました。これがメンタルの回復に繋がったことは言うまでもありません。

生活

この年は前年度前半の反省から、近辺の外出はわりと良くしていました。それまで行ったことがなかった王子公園周辺を散策したり、北野異人館へ行ったり、御座候を買ってみたり、大阪万博へ行ったり、明るい時間の神戸大橋の撮影に北公園へ行ったり、西宮を散策したり、灘五郷の西宮郷を見学したり、三宮のお店を発掘したり、大阪城公園へ行ってみたり、博物館へ行ったり、なんばパークスへ行ったり、もう30歳になってましたが令和7年内に内部見学できなくなる旧ハンター邸へ行ったりしました。
年が明けてからも有馬温泉に行ったり、中之島に行ったり、神戸税関前の当たりを散策したり、六甲アイランドに行ったり、新開地やハーバーランドの当たりを散策したり、姫路城に行ったり、大阪天満宮やあべのハルカスに行ったりしました。年明け後のやつは引っ越しする予定なので、関西にいるうちに行けていないところに行っておこうというので以前よりも多く、毎週末ぐらいの間隔で出かけています。

任天堂公式の抽選はSwitchを持ってなかったので資格がなかったですが、エディオンの抽選でSwitch2も買いました。

皆既月食の写真を撮ったりもしました。なかなか上手くは撮れなかったですがこれまで全然できていなかった、いつもと違うことをするのは楽しかったです。一眼レフカメラなんて本当に買ったは良いが博士課程でのアカハラとコロナ禍で全然遊べてませんでした。

遠出では、千葉に行ったついでに色々散策したり、早稲田大へ初訪問したり、香川へ行って金毘羅さんや小豆島へ行ったりしました。年が明けて松山の御城や道後温泉にも行きました。松山から高松まで特急電車の旅もしました。

出張続きで疲れてた&やることが詰まってたんだろう7月は除くと、月に最低一回は必ずどこかへ行ってました。

筑波大学の対応の続き

筑波大学側は前回の記事の通り、公益通報を揉み消してきました。しかし、このまま泣き寝入りするなど絶対に受け入れられる話ではありませんでした。ここまで大学と戦うような形になって、私自身がもうだいぶ消耗してしまっていましたが、ここで引っ込んだら大学や元指導教員の思う壺でした。どうにかしてこの狂った状況を是正すべく、可能な限り元指導教員が常勤である間に適切な処分が下されるようにするにはどうすべきか考えました。大学の言い分では、どうしてもハラスメント相談に移行させたいというようなことを延々と言い続けており、公益通報とハラスメント相談は別窓口で別対応であるということも言ってきました。この事を踏まえて、弁護士相談の際の話(基本的には大学側に対処させるべきであるということ)、そして、自分がもう元指導教員と直接的な上下関係にはないことを勘案した結果、大学にどうにかしてこの件の対処をさせるには事実上の異議申し立てとしてハラスメント相談に移行するしか無いという結論に至りました。もちろん、私自身、それをすることで元指導教員がこの業界のドンである以上、不利益を今後被る可能性はゼロじゃないですが、兎に角そうなればもう弁護士を付けて戦う、という覚悟で、今は常勤である間の是正を第一として、そのようにしました。

大学にはもう間接的上下関係も解消されたと言い、大学側の言う被害者側が完全に分かる形で、被害者保護の形もあくまで学内の規定に基づいて調査されるという受け入れがたかったことに了承して、調査を進めるように促しました。

まあ窓口が異なると言っても大学側では部署は公益通報とハラスメント対応でワンセットとなっており、中身は一緒と考えて差し支えないであろうものでしたが、改めてこちらを手間取らせるかのように証拠などの一つ一つの確認が入りました。この大学の形式に兎に角乗せて被害者を従わせる形が、とても高圧的で、心底不愉快かつとても被害者の心情に寄り添うものではありませんでしたが、さっさと対処をさせたかったので兎に角それをはいはいと言って進めました。

向こうの相談員は私が前年に面談を受けた際に極めて高圧的だったため、その旨伝えたところ、その相談員は出席していましたが別の人(教員)が質問等をし、問題の相談員は一切喋らずに記録する形となりました。

ただ、その教員もまただいぶ前時代的な人で、私の被害の話や録音を聞いたうえで「相談者が質問内容をその場でまとめるのが苦手なため、行為者が感情的かつ一方的な発言をしている場面があった」などという明らかに元指導教員が優位に取れるような所見を書いてきたりしました。録音と私が相談記録票に記載した元指導教員の行為内容が明らかに、侮辱と人格攻撃を含んだ詰問であり、相手の意向に沿わなければ激昂する姿も、こちらがそれを繰り返された結果萎縮している姿も、しっかりと録音データに記録されているにも関わらず。
流石にそれは「元指導教員が繰り返し個人攻撃を繰り返すため、まともな回答ができなくなってしまった」ということを入れるように申し入れたものの、その際も「相談者が述べていただけであるが」という趣旨の余計な一言を添えてきました。

そういう人がハラスメント相談の担当をしている時点で、本当に筑波大学のコンプライアンスは極めて劣悪あるというのは自明でしたが、たとえ悪い方に転んだとしても、少なくとも大学がこの件について全く対処しなかったという証拠を残すために必要なことであると考え、進めてもらいました。

なお、相談記録票には6ページに渡って、具体的かつ詳細にほぼ日付付きで、こちらがされたことを書き記しました。通常はどう考えても録音もメールも証拠が出揃っている以上、これを全く対処しないということはできないはずです。
この記録票を提出するまでも数ヶ月掛かりましたが、それを終えて、ここから更に1か月以上経って私への事情聴取がありました。

実は相談記録票には、私がハラスメント行為を受けるはるかに前から継続的に元指導教員がハラスメント行為を働いていることを書き、他にも被害者がいる旨を記載しました。ここで、できる限りその他の被害者に対しても事情聴取を行うということを言われましたが、聴取に応じて頂けると回答していた先輩に対して、私の事情聴取から1か月経っても大学側が聴取をしていないということを確認しました。

ここから今日まで半年が過ぎていますが、未だに筑波大学からこのハラスメント相談の結果は来ていません。もう既に元指導教員は退官記念パーティーまで開いて、常勤教員を去る3月に退職しました。

華々しく去ることを許したことに、心を痛みます。あれだけの悪質なハラスメント行為を、私の入学以前の学生の頃から継続的にしてきた人間に対して何一つお咎めがなく、このような結果になっていることはとても受け入れられません。

しかし、私だってこの間、大学側にハラスメント行為に関する元指導教員の処遇の全てを握らせ、何もしていないわけでただ指を加えていたわけではありません。これもまたものすごく勇気のいることでしたが、複数のメディアに本件についてリークしました。リークすれば私の身元が割れて、不利益を受ける可能性だってありましたが、そんなことよりもこの理不尽な状況に甘んじていることの方が余程将来に渡って後悔することであり、社会を正常化するためにも必要だと思いました。それに、既に筑波大学は公益通報を揉み消しているわけですし、私は既に本件について文部科学省に二号通報もしていますから、それを三号通報としてメディアにリークするのは正当な公益通報です*3

メディアリークは年を跨いでからのを含めて、読売新聞、産経新聞、朝日新聞、毎日新聞と大手4社に加えて、皇室の方が入られている大学での出来事ということの重大さから、国外メディアのBBCにも行いました。
しかしながら、どの会社からも少なくとも数か月、長いところでは半年以上経っていますが、どこからも返信のメールは来ていません。

公益通報をメディアすら取り上げないというのが現実であり、今日の日本です。その事実を突きつけられてものすごい絶望感しかなかったです。

もっとも、今は冗談抜きでもう悟りを開いています。絶望には変わりないですが、それによる鬱状態からは脱しました。それはこの後の30歳になった現在の人生観のところに書きます。

総括:20代を振り返って

20代の前半は最高のスタートを切って華々しかったですが、後半は最悪でした。

今思えば、学部時代には博士課程の先輩で指導教員の教授とバチバチになりながらも師弟関係を維持している人もいました。社会人になってからも、目上だろうがズバッと言ってしまうタイプで、それでも受け入れられてる人のエピソードを聞きました。少し小生意気に思われようが、それで良かったんだと思います。

あまりにも辛い20代後半だったけど、人生選択の教訓として、今後の人生の軸になっていくんだろう、というか、していかなければいけないと、振り返っていてものすごく思い直しました。

そうじゃなかったら、自分の身を自分で守ることはできないし、幸せにはなれないので。また不幸になってしまうと思います。

日本国内で見たらそういう理不尽はたくさんあるんだろうけど、広い視野で世界全体で見たときにそういった理不尽が果たして我慢すべきものなのか、と問われたらそうは絶対にそうではないはずです。むしろ今まで日本でそういったことが問題になんなかった、揉み消されてきたことが異常なんですよ。

日本の中だけのちっぽけな世間体に囚われたり、自分に嫌なことしてくる相手の迷惑なんかよりもずっとずーっと、自分の身を守ることや自分の人生を無駄にしないことのほうが大事で、何より自分が楽しく過ごせることが一番だと、20代を振り返ってみて切に思うし、実感し直しました。

もちろん、これは未来の自分が失敗しないためのメッセージですが、他の人がこれを見たときにも人生がより良くなっていく方向に少しでも後押しできたら幸いです。

30歳になって、20代を経た人生観

心境は変化するものなので、今そう思ってても時間が立つにつれてその悟りが発展していくかも知れないですが、それなら一層、記録しなきゃいけない気もしてくるので、前回の記事で悟りと書いた、20代を通したうえでの今のこの30歳の心境を書いていきたいと思います。

何度も自殺を考えたり、死に関するコンテンツ(鉄道自殺の動画や焼身自殺の事件など)を見てきて、生と死は常に隣り合っていて、死というのが身近な存在になりました。

本当にどうしようも無くなったら死ねばいいし、死んだら結果は何も関係なくなる、死んだらみんな一緒だと思うようになりました。
もっとも、この考えでちゃんとしっかり軸を持てるようになったのは今年の3月以降ですが。

こう考えるようになってから、将来の、比較的遠い未来のことならまだしも、目の前の今置かれてる狭い環境(職場や研究室など)での、私が行動した結果によって想像される直近の不利益なんてどうでも良くなってきました*4。どうせ死んだら同じ、関係なくなるので。

そう考えると、目の前で今やろうとしていることがもしかしたら失敗するかも知れないというリスクや、私が20代の頃に実際に言われ、直面していた指導教員に歯向かったら学位審査を落とされるかもしれないというリスクなんてどうでも良くなってきます。当時はそれこそ「こんなに嫌な思いをし続けて来て学位を取らなかったら損」だと思っていたし、それがあったからこそ取れたのかも知れないですが、それで今こんなにメンタルの不調が続いていて不幸になってるんだから、あの時通報しても、突然ブチギレて机をひっくり返して暴れても、大声で罵詈雑言の仕返しをしても、その結果学位を取れなくなっても、退学しても、筑波大まで行ってセンター長室を爆破して焼身自殺しても、失敗したら死ぬ覚悟でそれら全部やっても、全部同じだったかも知れないです。なんならそれで死んだら全て終わらせることができて今よりも幸福だったかも知れない。

本当に、日本語を喋れるだけの畜生どもの自分勝手な都合の押し付け合いに巻き込まれて、その場の空気感を壊さないようにする縛りゲーを自分からわざわざ続けるのは馬鹿みたいでした。馬鹿みたいでしょ?

どうせ死んだら全部終わり、死ななかったとしても幸せになれない。

だったらそんなのは、常に自分の都合しか考えることができない畜生どもに配慮してそんな縛りゲーを続けてる必要なんか何ら全く無いです。もっと自分の立場を守っていいんですよ。喧嘩することも戦うことも悪いことなんかじゃない。正義っていうのは立場によって変わってくるし、相手の中ではしょうもない己のエゴに都合が良いことが正義だとしたら、当然こっちの正義を主張して守んないといけない。

そうしなかったら、死んだほうが幸せかもしれない。

親が私の命よりも世間体を優先するような家庭で育ったのも相当の悪影響があったと思います。
ちょっとアメリカナイズかもしれないですが、世界を広く見渡して見た時に、世界の常識からすればこんなのは当たり前で、戦後の日本の空気感が異常なだけでした。
今それも変わってきてます。

以上、自分が振り返った時に、自分に言い聞かせようという強い意図で書きましたが、もし他人の都合によって人生が不幸になって悩んでいる誰かがこれを読んだときに、役に立てば幸いです。

 

*1:ドクターストップも掛かっていたので。でも、仕事上は出たほうが良い会議ではあったので、少なからずそれに引け目を感じていた部分はありました。

*2:基本的に立ち会うこと自体がドクターストップです。

*3:これを書くことは「もしそういう事があればリークする」「そういう前例がある」ことを示す意味で、自分自身の身を守ることに繋がるはずです。

*4:D進する前の感覚に近い状態に戻りました。

30歳になって、20代の振り返り(その5)

前回の記事の続きで、20代の振り返り(社会人2年目、28歳〜)を書いていきたいと思います。おそらくこれが最終章です。分量的に教員時代はそんなにめちゃくちゃ書くことは無い(はず)なので、ひとまとめにします。と思っていましたが、書き出したらだいぶ膨らんだので社会人3年目は分けます。

まああんな地獄を経た後なんで、薄っぺらいといえばそうかも知れないですし、今も連続しているタームなのでなんか俯瞰して見るのが難しいですが、ここまで書いてきたエライ地獄からすれば、この教員時代はとっても平和だったなと改めて実感します。

でも、なんというか、後遺症というか、地獄の余波が残っている感じで、何もないはずなのに全体的に心の中はそうではなくて、雁字搦めにされているような、どこか自由が制限されているような、そんな感じがありました。その根底にあるのは未来に対する絶望感だったと思います。

もっとも、これを書いている今はこの2年間よりもずっと解放的になっていますが。

今は、地獄はある意味続くんだというのを再認識してしまったうえでの境地、ある種の悟りを開いてしまった部分もあるんだろうなと思います。

それは一旦置いといて、28歳の振り返りから。

社会人2年目

これを書くのはおそらく去年の今頃のメンタルだったら絶対にできなかったと思います。

社会人2年目としていますが、書き出しは厳密には少し前の学位取得の日です。
この令和6年3月25日は学位を取った日でもあるんですが、同時に私が退学してからちょうど1年という日でもありました。

それまでずっと考えてきました。でも「俺の言うことが聞けないなら学位審査を落とすぞ」と指導教員に脅迫されてきたため、できませんでした。しかし、この日を以て指導教員との上下関係は完全に絶たれました。

公益通報にはその組織を去ってから1年という制約があります。私は何度も何度もどうするべきか悩みましたが、その日の帰りの新幹線ではどうしたいかはただ一つでした。もしかしたらまた更に不利益を受けるかも知れないと思って、ものすごく勇気のいることでしたが、もう学位が取得できなくなる心配は少なくとも無かったので、勇気を出して、帰りの新幹線で筑波大学の公益通報窓口(コンプライアンス通報窓口)に私が受けた被害について公益通報しました。

その通報は正式に書面を以て受理が通知され、私は公益通報者保護法の保護対象者となりました。

この先、かなり杜撰で酷い筑波大学の対応を書いていきますが、大学側が足蹴にしてきた私の通報は、大学側は全く微塵にも考えるに至らなかったでしょうが、今書いたようにものすごい葛藤と覚悟のうえでした。

教員になってからの生活の変化ではなく、この覚悟こそが、社会人2年目、28歳の私の振り返りの最初に来ることです。

公益通報するに至るまでに影響することが世間でも色々ありました。この前年の令和5年、また令和5年ですが、本当にこの年は色んなことがありました。今をこの年無しに語ることはできないです。もちろんTwitterがXになったこともその一つでしたが、ジャニーズ事件、女性加害事件、ビッグモーター事件など兎に角色々ありました。その中に共通するものはまさしくハラスメントでした。

私が在学中も筑波大学では女子学生にセクハラした罪でムーンショットの代表の教授が逮捕されていますが、そうしたことに対して、ハラスメント被害の当事者である私が他人事だと思って傍観しているわけがありませんでした。

これまでことなかれ主義の中で揉み消され、ナァナァにされてきたことが一気に噴出して問題となりました。私がされてきたことも、後に筑波大学側の窓口に相談するに当たって「今の時代にはあんまりいない人だけど、昔の人って感じだね」という感想だけで畳んでしまおうとするような言われ方をされたりもしましたが、それこそ前時代的なのは明らかです。

それに私は教員になりました。もちろん、私はもう筑波大学とは関係ない人間になったのでこれでおさらばで、何も考えずに、これまでのことから距離を置いて過ごそうと思えばそうできたかも知れません。でも、教員であるのに大学の問題に目を背けて、自分がハラスメント被害の当事者であるにも関わらず、その問題を解決せずに、被害者の再生産に加担してしまって本当にいいでしょうか。私は絶対に嫌でした。そんな何もしないで周りの碌でも無い大人の都合のために泣き寝入りして、ただ被害者だけが苦汁を飲まされ続ける状況を許すのは絶対に今後の人生に悪影響しかなく、未来永劫後悔すると思いました。

私はできる限り、受けてきた理不尽に抗って、二度と同じことが繰り返されないように自分にできることをしようと心に決めました。それはもちろん、ここまで書いてきた指導教員の数々の外道の行為を許しているわけがなく、許していると思われたくもなく、許せなかったからです。絶対に許してはいけない行為という絶対的な確信を以て、自分が後悔しない範囲で状況を変えようと、覚悟を決めました。その後押しとなったのは令和5年以降に出てきた様々なハラスメント被害に対する問題の表面化でした。私の27歳以降の年は世の中がそういう状況であり、私はその影響下にありました。

4月に入ってからの話をします。私は教員になり、裁量労働制に移行しました。4月に入って職場に新しい仲間も増えました。科研費の申請やらなにやら新しい書類の処理やらで、別に異動が発生したわけでもないのに4月の頭は大変だったのを覚えています。

ところで、この振り返りのその3の記事あたりに、元指導教員が就職先の先生も入っている大きなプロジェクトで就職先の先生のチームを評価する立場だと言って、それに忖度せずに勝手に就職先を選んだという理由で激昂し、怒鳴り散らしながら私に対して激しい人格攻撃をしてきたことを書いたのを覚えているでしょうか?

そうです。一つだけ、学位を取って、教員になって、あらゆる地獄から解放されたはずなのに、一つだけ変化していないことがありました。それはあの、畜生が日本語を使えるようにしただけみたいな元指導教員が私の入っているプロジェクトに関わっていることでした。直接的な関係性は完全に消え去りましたが、このプロジェクトは終わっておらず、間接的に上下関係が発生している状況で、会議によってはこれまで書いてきたように人をゴミとして扱う元指導教員が出席していることもありました。
私が筑波大学との関係が無くなってもなお、元指導教員から受けた理不尽を是正したかったのにはこういう事情もありました。つまり、結局の野放しにしていたら地獄が繰り返されることを、社会人になってからもずっと現実として危機に瀕している状況であり、そういう立場にあってとても見過ごせなかったのです。

公益通報時点で、元指導教員は定年までこの令和6年度を入れてあと2年でした。それまでは少なくとも筑波大学で常勤教員として雇用されているので、どうにかしてこの間に適正な是正がされるようにしたかったのでした。
今これを書いている時点ではそれが達成できたかどうかを知っているので、この教員になって以降の2年間を振り返るに当たって、その点について無心ではいられないですが、今の感想ではなく、当時のことを書いていきます。

生活

教員になってからの生活は裁量労働制になったことで、だいぶ楽になりました。特に朝起きて、わざわざラッシュの混雑列車に乗っていかずに済んだのはコロナの感染リスクから言ってもかなりの改善点でした。

一方で、それまでがだいぶ大変な日々を過ごしていたので少しペースを落とさなければこのまま野垂れ死にそうでした。特に前年は博士の残りの作業と仕事を両立させていたので、3月に学位を取ってからその疲労感がどっと来ていて、最初の頃は本当に前年度と慢性的などっと上から伸し掛かる疲労感の感覚が抜けず、「このままずっと気分の重たいまま、明るい未来を思い描けずに鬱状態の続く暗い日々を過ごすことになったらどうしよう」と本当に思っていたのをこれを書いていて思い出しました。この感覚がいつ頃抜けていったかはBlueskyやXを見ないとわかんなさそうですが、少なくともこの令和6年度中は、初めと終わりでは終わりのほうがマシにはなっていたでしょうが、ずっとそういう感覚が抜けませんでした。その感覚から本当に解放されてきたのは、ハラスメント相談の事情聴取が終わって筑波大学とのやり取りをしなくてよくなった去年の11月以降です。それまでは元指導教員によってこの地獄がずっと続くであろうことに対する絶望感がありました。それは、この時点であの元指導教員の支配下では無くなったにも関わらず、まだ苦しめられている、今後も苦しむかも知れないという感覚が抜けなかったことで、余計にそうなっていたんだと思います。

そういうわけで、前年度よりは日々に余裕を持たせていましたが、前半はあんまりどこかに行くというのは気分的にあまりできず、前年度までの元指導教員の言いなりになりたくないという反抗心も源泉がなくなり、家にいることが多かったです。流石にその自覚は自分でもあって、後半に前年度、令和5年度の1年間を写真で振り返った時には色んな所へ行っていたな、今年よりも行っていたなと思いました。でも、旅行や出張は前年度は無かったので、よくよく考えるとこの年度は近場ではあまり出かけなくても、遠出は結構してたというのが写真を振り返ってたら分かりました。

イベント事があったときにはだいぶ出かけていて、特に後半は意識的に出かける回数を増やしました。前半は千葉に行ったついでにちはら台まで行ってみたり、幕張の浜を散歩したり、徳島に行ったり、札幌に行きました。徳島ではうどんを食べて、夜には山に登って、汽車に乗って鳴門にも行って、船に乗って渦潮も近場で見て、御城の跡も登って、淡路島も少し自分の足で歩いて神社に行ったりしました。特に、徳島に行った時はものすごく気分が最悪だったのをよく覚えています。周りを観光することで少しでも気分を良くしようとしていました。発表をしたときもものすごく鬱状態でずっと気分が落ち込んでおり、暗い気持ちでした。ホテルでは本当にどうしてこんなに気分が悪いのか、どうしたら良くなるんだと考え込んでいました。まさかあの時の発表が後に学会で表彰されるなどとは全く思えませんでした。もしかしたら、この夏がこれまでの人生で最も鬱だった夏かも知れません。北海道も徳島もそんなに時間が経ってるとは思えないですが、時間の流れは無情です。
近場でも、前年度ほどではないですが、奈良に行ったり、どうぶつ王国やサンプラザを巡っていました。

後半は、みなとHANABIのついでに改修が完了したポートタワーに登ったり、川の源流を辿ってみてから六甲山麓の家の間を抜けていって摩耶山に登ったり、美術館へ行ったり、大学の文化祭へ行ったり、ハーブ園や布引の滝に行ってみたり、ルミナリエを見に行ったり、お寺を回ったあとに引退車両の写真を撮ったり、北公園へ行って神戸大橋の夜景を撮ったり色々初めて行くところにたくさん行っていました。前年度行った場所を振り返ったのがちょうどみなとHANABIのときだったので、それ以降、近場でかなり色んな行ってないところを巡りました。もうこのあたりになると結構鮮明に色々と思い出せます。
さらに、出張で久々にアメリカへ行きました*1。海外は博士課程の頃にコロナ禍で一回ポルトに行くのがポシャったのでアメリカしか行ったことがないですが、今度は学部の頃に行ったカリフォルニア州のシリコンバレーじゃなくてジョージア州アトランタでした。久々に沖縄に行ったついでに古巣の大学訪問もしました。初めて東大病院以外の東大本郷の建物にも行きました。会津若松も15年ぶりに訪れて、雪の積もる中で温泉に入ったり鶴ヶ城に行ったりしました。

こうやって色んなところに行って、仕事でも共同期研究先の色んな人とも関わることで、少しずつメンタルが回復していきました。少なくとも、後半の終わりには前半に徳島に行った8月頃よりはメンタルがだいぶマシになってきていたと思います。もっとも開始点がどん底だったので所詮まだまだ問題のある状態でしたが。この頃は時間が経つのが異常に早かったです。

実は途中まで、引っ越してからもう退学して指導教員から離れたのにこれ以上金銭的損失を出して医者に通い続けたくない、その事実自体が苦痛だと、そう思ってしまって病院に行けていませんでした。それでも、やっぱり生活上苦痛で、通勤途中でクリニックを探すことはあったものの、評判がアレな医者とかもあったりして、紹介状はあっても行っていませんでした。ですが、寝不足が続いた上にメンタルがあまりにも不安定、もはや崩壊していたので耐えられず、頑張って探して6月ごろから通うことにしました。新しい医者は前の医者と違い、状況を聞くや開口一番「その元指導教員と関わる限りメンタルに影響が出るからその業界をやめるべき」と言ってきて、当時はこんなそうそう入れない業界に入れて不届き者のために自分が辞めるなんてとんでもないことを言ってくる奴だと思いました。まあ、今思えば自分が身を壊すぐらいならそれは一つ持っておくべき選択肢ではあったとは思いますが、それはせっかく通い始めた医者に自分を否定されたように感じて辛かったです。それも一つ、あの年、希望は無いと思うようになって、気分がずっと塞ぎ込んでいた原因でした。その時の絶望感を今でも思い出せます。でも薬は紹介状を読んで前の医者と同じのを出してくれたので、薬をもらうために行くんだと思って割り切って通い続けました。

筑波大学の対応、弁護士、警察相談

筑波大学の対応は極めて冷たかったです。まず、公益通報してしばらくしたらハラスメントはハラスメント相談室の担当だからそっちに回すと言ってきました。しかし、そのハラスメント相談室というのがどういうものか聞けば、相談相手が明確になるというもので、公益通報と全く異なりました。それで、私がまだ仕事上の間接的な関係があるから法律で保護される公益通報で対応してほしいと言っても極めて事務的かつ高圧的に、被害者の心身を踏みにじるようにその意向を足蹴にしてきました。

それから1か月を過ぎても連絡がなく、本来の公益通報のあり方からすれば調査を開始せずに1か月以上放置することは完全にアウトなんですが、私は二号通報にあたる文部科学省への公益通報も行いました。文科省の対応もかなり他人事のようで「それは筑波大学の管轄だから筑波大学に動くように連絡する」とだけ返信が来ました。しかし、それによって筑波大学が(嫌々というのがめちゃくちゃ伝わってきましたが)1ヶ月以上振りに連絡を寄越してきたので、文科省は一応ちゃんと動いてくれました。これはありがたかったです。

大学はその後も法的に通報者が保護されないハラスメント相談に無理矢理にも移行させようとしてきましたが、それは私を人格攻撃し続けてきた身勝手な元指導教員と同様に、完全なる大学の都合であり、とてもまともな対応ではありませんでした。少なくとも全く被害者に寄り添っておらず、常に高圧的でした。一回ハラスメント相談室の相談員の面談を受けましたが、その相談員もものすごく高圧的な態度で、ただ私は法律に定められた公益通報の手順に則って通報者の保護を前提に調査して欲しいとお願いしていたに過ぎないのですが、大学に従わなければ大学は対応せず、何もしないという態度でした。私はとてもこんな大学の都合のために自分が身を切ってリスクを負いながら、ハラスメント相談室を信用して対応してもらおうなどとは思えませんでした。

こういう状況だったため、私は公益通報に関する無料の法律相談を大阪弁護士会がしているのを見つけ、弁護士さんに対応を相談しました。

公益通報に関しては組織(この場合は筑波大学)に対応してもらうしかなく、なるべく大学が調査しやすい証拠をまとめた資料を作ることなど、いくつか提案頂きました。

大学は頑なに態度を変えないため、弁護士会の見解など、法的な複数の証拠を根拠に、通報内容には違法な内容を含んでおり、そうでなくても大学には学則としてハラスメント防止に関する規定があるため、これに該当するコンプライアンス違反を野放しにし、公益通報として扱わないことは公益通報者保護法に則らない行為であることを説得しました。また、録音とメールはかなりの量であったため、それらの内容を文書にまとめた資料を作りました。そうして、大学からは常に嫌々やっている感が滲み出ていましたが、公益通報として調査するという回答を大学から引き出すことに成功しました。
これは、今後同じ問題に当たった通報者の道を開く必要があるという考えもあって進めました。前例を作れたのは良かったです。

しかし、大学は調査するとは回答しましたが、12月に一回通報者の聴取をしたっきり、連絡が一切音沙汰無しとなりました。おそらく、読んでいる人からすると3月に通報したものの聴取が12月になっていることそのものが信じられないと思いますが、本当に大学は信じられないぐらいモタモタとサボタージュしていました。

年明けにはこんな状況であったため、警察にも被害内容について相談しました。一応、大学として違法なことがあれば刑事告発するように公益通報者保護法の法律上なっており、そのことは大学に伝えましたが、大学が真っ当にそのように運用するとはまったく信用できないような状況でした。私は公益通報した理由はもちろん、私の身の安全が第一ではあったものの、そもそもこの被害内容自体が、傷害罪、脅迫罪、強要罪等の疑いがある内容であったためでもありました。

警察に相談することもまた、ものすごく勇気のいることでしたが、兎に角一度始めてしまえば流れで対処できると公益通報の自分の経験として得ていたので、勇気を出して警察にも相談しました。このとき傷害罪を強調して、強要罪の方に言及しなかったのは私の中で悔やまれるところでしたが、兵庫県警では「結局これは茨城県の検察が起訴するものであるため、事件の起きた場所の署に行ってもらったほうが良い」など言われたものの、つくばまで行くことは極めて精神的に厳しいと、はっきり伝えたところ、少なくともその場で突き返されることはなく、これが起訴可能か(厳密には判例上、検察が受け付けるか)は確認する、ということになりました*2。この対応、一見するともしかしたら、騙されていると思えなくもないですが、この後書く高圧的な対応のつくば警察署よりは100倍マシでした。すぐに突っぱねることの方がおかしいんですが、これの起訴できる可能性を確認してもらったというだけでも、少なくともつくば署よりずっとまともに対応してもらえました。
もっとも、3月に入り、その結果はバツだというのを警察署で知らされることになりました。判例を示したうえで、この内容だと検察が起訴するのは難しいというのが回答でした。

しかし、このときの刑事さんの話は「茨城ではどういう対応になるかわからない」という回答だったので、こんなことで泣き寝入りしてたまるかと、あっちに行くのはものすごく嫌でしたが、ちょうどこの時関東に行く用事がすぐにあったことから、つくば署まで行きました。

つくば署の対応はここにしっかり記録しておきたいです。
電話した時点でだいぶ消極的な回答で門前払いを食らいそうになりましたが、それで引かず、とりあえず署で話を聞くという事になりました。

しかし、当日行くと、まず担当の刑事さんが病気でいないと言われました。最初の電話口の後にこれなのでだいぶきな臭かったですが、別の刑事が聞くことになりました。このあとの密室での対応がとにかく酷いものでした。最初にスマホを預かると言って部屋に入れさせなかったんですが、それを良いことに大分高圧的な態度で兎に角門前払いにしようと圧を掛けてきました。誘導です。資料が十分な量を持っていったのでそれを眺める時間こそそこそこのものでしたが、兎に角追い返そうとすごい剣幕でした。こちらが「これが強要罪になんないんだったら何が強要罪になるんだ」と言っても、それは「強要とは言わない」などと言ってずっと同じ回答の繰り返し。でも私もここですぐに引き下がったらいつここに来れるか分かったもんじゃないので兎に角粘りました。完全に向こうが話をする気が無く突っぱねて門前払いする気しか無い状態だったので押し問答で、ヒートアップして怒鳴ってきましたが、最終的に向こうが「大学がずっと連絡を寄越さないのは流石におかしいので、公益通報の結果を早く出すように連絡する」と言ってきたところで、もうこれは私がここで今を言っていても動かないだろうとは思っていたので泣く泣く、泣き寝入りして帰ることにしました。

あまりにも高圧的だったので、録音できなかったことが惜しいです。全部の警察が同じ対応ではないことは今回の件を通してよく分かりましたが、被害者が弁護士に金を積まなければ警察すら動かない日本の現状はあまりにも酷いです。
つくば署に関しては門前払いにかなり手慣れていました。おそらくあの筑波大学の管轄署であることから、同様の相談という大量にあってもそれらを同様の手口で突っぱねているんだろうと思います。あそこは2つあった警察署が最近になって統合されて管轄が広く、大学新聞しか書かないですが大学周辺でも大量の不審な事件が多発しているので、そうやって相談を無かったことにして警察の負担を減らしつつ治安が良いことにしているんだと思います。兵庫県警では取ってもらっていた相談の記録も取ってもらえなかったと記憶しています。つまりそういうことです。

そういうわけで、つくば署はおそらく私が何を言っても門前払いだったと思いますが、電話口で向こうが消極的だった際に「兵庫県警では門前払いではなかった」と兵庫県警に相談していたことを言ってしまったこと、大学にこの件を公益通報していることは言わないほうが良かったと、振り返っていて思います。あれは弱みに付け込まれました。

本当の事を言って警察がそれを被害届を受理しない口実に使うなんて意味不明ですが、大学のことを言わなければよかったというのは、資料を提示した時点でその資料が弁護士のアドバイスをもとに大学の公益通報窓口への提出用に作られていたので難しかったんです。

あの門前払いにしてきた刑事が実際に大学へ連絡したというのを電話で伝えてきた後、しばらくして大学から公益通報の結果を書面で通知されました。しかし、これが酷いもので、実質何一つ調査しておらず、調査を打ち切るというものでした。その言い訳も酷いもんで、「被害者の保護が最優先なのでこれ以上調査を続けられない」というものでした。こんな理由で調査を打ち切って良いんだったら何も調査できません。あまりにも酷い言い訳、言いがかりです。

しかも、私はこれに備えて、弁護士会が出している公益通報の手順を示し、その中に「調査中に被害者の情報の取り扱いが難しい場合は被害者と相談して、その範囲を確認しながら進めることで組織が不利益を伴うことなく調査を進められる」という内容の説明があることまで示していました。

そのうえで、自学の学則に書かれているハラスメント防止に関する規定はガン無視して、「法律上、コンプライアンス違反であることが確認できない」などと書いてきました。これが筑波大学のコンプライアンスです。天皇家、皇族の悠仁親王殿下も入られていて、このコンプライアンスは本当にありえないと思います。

しかもこの結果を寄越すにあたって、あの刑事が大学に電話しています。もしかしたら、刑事がことを早く済ますように大学にこのようにするよう指示した可能性だってありました。

何にしろ、加害者である教員に対して何らの処分もないまま、被害者であり、勇気を持って通報した私を踏みにじることだけをして、そのまま強制終了してきました。これが筑波大学の対応であり、事実です。公益のために、また私が嘘を言っていないことの証明のために、公益通報の結果はここに載せておきます。

公益通報の結果通知

遂に20代最後です。29歳、最終章のその6に続きます。

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*1:この旅の模様はもっと詳しく語りたいですが、それはまた別の機会に。

*2:相談、つまり、被害届ではなく、刑事告訴も考えましたが、色々調べていて弁護士を付けないとかなり難しく、たとえ提出できたとしても不起訴となる可能性があるというのが検索した結果だったため、当時の私の精神状態ではここまでできませんでした。

30歳になって、20代の振り返り(その4)

前回の記事の続きで、20代の振り返り(社会人1年目、27歳〜)を書いていきたいと思います。前回までの大学院生時代が地獄でしたが、これ以降では直接的に日々の中で死にたくなるようなエピソードの割合は大幅に減るものの、20代が終了するまで振り返っていて苦しくなるような話が続きます。メンタルには確実に来る内容が含まれます。とは言っても、直接的な危害が無くなったのでだいぶマシではありますが。

この記事から先は完全にこのR8年のGW中に書き起こしたものです。これまでの記事に去年の8月に書き始めてからGWまで更新が延びたのは振り返りが辛いからということを書きましたが、特に4月以降、自分が今すぐやれる範囲のことは一通りやって一区切りついて、解決したわけではないものの、段々気持ちの整理が付いてきました。

私にとって、本当に27〜28歳の令和5年度は特別な年回りでした。コロナ禍が明け始めたという意味でも、就職して物理的に地獄から解放されたという意味でも、博士号の学位を取得できたという意味でも。

というわけで社会人1年目にどんなふうに過ごしてたかを、まだ当時の肌感覚を覚えているうちに書き起こしていきたいと思います。

非常勤補佐員(社会人1年目)

社会人と言っても退学しただけでまだ学位を取っていないですが、1年目が始まります。引っ越しはD3の3月中旬にしました。今思えば、もっと早く引っ越したほうが良かったかも知れないですが、専攻で退学の申請に許可が出たのが2月20日で*1、採用に関しても公募じゃなかったので採用通知的なものが特に無く採用手続きが進んでいて、当時はなかなか4月以降のことが確定しなくて動けなかったと記憶しています。
本来なら退去の手続きは1か月前に済ませるべきでしたが、それも間に合わなかったのを悔やんだのは昨日のことのように思い出す次第です。というので思い出しましたが、なんかずっと指導教員から色々、具体的には「向こうの先生に行った時に仕事の迷惑にならないように博士の研究は退学前になるべく片付けろ」などとゴチャゴチャグジグジと言われていて、別に真に受ける必要なんか無かったですが、もはやマインドコントロールされてるような状況だったので動けなかったような気もしてきました。まあ詳しいことをすぐ思い出せなくても怒りの感情は永久不滅ですぐに思い出せますね。もちろん、メールや録音、研究の記録は残ってるんで当時の状況は振り返ろうと思えば振り返ることができますが。カレンダーが綺麗で、毎年3月の終わりに大学であったJST SPRINGの採用された学生のポスター発表が入ってないですが、あれは最後の年は引っ越すので現地発表はパスしてポスターだけにしたんだった、というのをこれを書いてて思い出しました。

引っ越したら引っ越したで、最後の挨拶がどうだとか、どの口が叩くんだと思うような恩着せがましいことを退学前最後に無理やりZoomに繋げさせられた時に大声で怒鳴られ続けられましたが、それが退学前最後の人格攻撃と怒鳴られであり、本当にその年の3月末を持って研究室の学生では形式上なくなりました。最後の最後まで本当にアカハラ・パワハラの酷い研究室だったってことですが、中にはTXどころか、遠く離れた常磐線の線路まで行って自殺する筑波大生もいる中でよく生きて出られました。コロナ禍でリモートが当たり前の世の中じゃなかったら普通にそうなってても何もおかしくなかったですが。

新天地では学位を取っていなければ教員として採用するのは難しいということで、非常勤の補佐員として雇ってもらうことになりました。赴任手当は出ず、引っ越し費用は全額自費負担だったので、兎に角金額を圧縮するために16日に搬出した荷物を20日に搬入するという、数日跨いだ引っ越し日程にしました。お陰で3月の関東〜関西の引っ越しでも15万円ぐらいで済みましたが、この間は神戸のネットカフェで寝泊まりしました。

そういえば、神戸で部屋探しをしている時に関東では当たんなかったものすごい不動産屋に当たってしまったのをブログに書いていなかったので記録しておこうと思います。もう3年も前の話ですが、反社と繋がってるんじゃないかと思うようなヤクザばりの接客内容だったのでちょっとすぐには書けなかったですね。これは同じ被害に遭う人がこれ以上出ないように公共の利益のために書きますが、アシ◯トという不動産屋で、客に対する態度が最悪でした。その癖、Googleレビューは星5ばかりなので確実にサクラです。私もタケウ◯という担当者にかなり横暴な部屋の決めの圧を掛けらたり、内覧が一通り終わっても、最後に店の前でも駅前でもなんでも無い駐車場で降ろされたりとかしましたが、同じタイミングで来ていた外国人が店員からめちゃくちゃ大柄な態度で怒鳴りつけられてるのを見てて本当に気分が悪かったです。関東ではこんな経験しなかったので関西のイメージがだいぶ悪くなりましたが、自社で物件管理してる別の不動産屋はそんなこと無かったので店によるんだと思います。ちなみに、このア◯ストは自社で物件は持っていないようですが、仲介している物件の大多数の管理会社である広島屋不動産についても「うちと違って変な物件を勧めてくる悪徳業者」などの営業妨害に当たる悪口を平然と言っていました。

さて、新天地の神戸では引っ越し当初は少し三宮駅周辺を冒険していました。もはや当時と風景が全然変わっちゃってますが、まだ交番も駅の南にあり、なか卯のところの交差点は改造中でした。4年前に来た時にあった安い定食屋がコロナ禍の煽りを受けて無くなってたのには衝撃を受けました。4年ぶりに来た街の変化に、博士課程の3年の間にコロナ禍で世の中が色々変わったことを思い知らされました。

自宅の部屋は前回柏の時と広さは同じでも1DKで間取りがちょっとリッチ。メンタルの改善を望んで採光が取れるように、また角部屋で窓の多い部屋にしました。

仕事が始まって何が大変だったかと言えば、時間労働制。大学院生時代は定時の概念なんか当然なく、自分で研究時間は付けてても開始と終了のタイミングは決まってなかったので、この時間労働がものすごく辛かったです。そもそも適応障害のうつ状態で寝付けず、禄に寝れない日とかがあって昼夜逆転なんか当たり前だったので。すぐ教員になれれば裁量労働制だったので、こんな目に合わせて研究の邪魔ばかりして学位取得を遅らせた指導教員をものすごく恨みました。常に寝不足だったので職場ではウトウトしていることが多かったです。時間労働制は自分には無理であると確信しました。

職場は個々に個室が与えられていました。ポーアイで周囲が磯臭かったことを除くと環境としてものすごく良かったです。ただ、鬱状態で気分が悪いときも多く、腹痛の時もかなり頻繁にあったので、仕事が手につかないことも結構ありました。なにより、この状況下では仕事と学位審査の要件を満たすための論文誌のための実験評価を並行してしなければならず、なかなか辛かったです。ただ、時間労働制だったので時間の区切りが生まれて、職場以外では比較的自由に過ごせたのは不幸中の幸いでした。

初年度は2年目に振り返ってみて、こんなに出かけてたんだ、と思ったぐらいにはわりと出かけてたと思います。冒険してるときは楽しかったです。神戸の三宮、元町、港の方はもちろんのこと、ポーアイの各駅、和田岬や大阪のキタとミナミにもそれぞれ行きました。私は道頓堀だけでなく渋い通りも通ったうえでミナミの方が好きだなという感想でした。

気分が悪くて集中できないときは、時折、職場周辺を散歩したり、職場の近くの海岸沿いに出て風に当たることもありました。仕事が進まなきゃ元も子もないわけで、学位が無くて非常勤のため、当初より給料はだいぶ低いとは言え、せっかく雇ってもらったのに成果が禄に出なかったら不要扱いされるんじゃないかと思ってかなりのプレッシャーでした。今思えばこの当たりのプレッシャーは博士課程時代のマインドコントロールのせいで過剰に感じてしまっていたところがありました。職場で新たな人と出会ってつくばとは全然違う人と話していても、やっぱりどこか不安で落ち着かなかったです。それは実際に指導教員から「俺の言うことが聞けないなら学位審査を落とすぞ」と脅されていたので、博論がアカハラによって落とされたらどうしようというのが本当に学位記を自分の手に実際に納めるまで毎日不安でした。

そんな中でもみなと花火を見に行ったり、映画を見に行ったり、色々と抗いながら神戸という新天地で楽しく新しい体験をして過ごしていたのは良かったです。職場の人間関係も極めて良好で、何も問題が発生しなかったのもメンタルが段々回復していくことの後押しとなりました。そういうわけで、今の職場への感謝は別の記事でも述べていたと思いますが、改めてここで振り返ってみて本当に感謝したいです。兎に角、毎日博士課程の頃のように、急に意味不明な言いがかりを付けられたり、一方的に能力が低いと決めつけられたり、こちらが説明しようとしているのを遮ぎられて説明が悪い、日本語能力が低いと激昂されて怒鳴りつけられるようなことがまたあったらどうしようと毎日不安だったので。新天地ではそんなことは全く無かったですが。

博論本審査(学位本審査)までにいくつか嫌なことはありました。退学して、別の先生の職場に来たので向こうも手出ししにくかったんでしょう、毎月毎週と指導教員と会議をすることはもうなくなりました。今振り返れば、この時点で既に指導教員の支配からは逃れられていたと言ってよかったと思いますが、それでもそれは訪れました。

一つは、5月にあった学位予備審査です。これを説明するにはまず、令和5年当時のコロナ禍の状況について記しておく必要があります。当時は5月に新型コロナウイルスが2類から5類感染症に変更され、岸田政権がマスクをなるべくしないように&リモートを辞めて対面で授業をするようにと学校に呼びかけて、強制的にコロナ禍を終わらせようとする流れがありました。経済的停滞の状況を強制的に動かしたかったからだというのが世の中の見方でした。ただし、これが本当にコロナ禍終焉とはならず、今もたくさんいますが、マスクを引き続きしている人は当時はもっとたくさんいました。私ももちろんその一人でした。本当に世の中全体としてコロナ禍の終焉を実感するのは令和7年に入ってからです。
5類に移行したことでイベント事は段々再開していきましたが、それは無視することができなかった感性症の法的な取扱基準が緩和されたからに過ぎず、世の中としてはまだまだコロナは流行っているというのが目に見えて明らかでした。実際にこのあと第何波と、大きな感染の波が続きました。
そんな中で、指導教員は絶対に対面で審査するなどと、また、己の愚かな都合だけのただの傲慢、我儘を押し通そうとしてきました。しかも、この予備審査の日は令和5年5月8日月曜日、つまり5類に移行するまさにその当日でした。私はもちろんこんな自称馬鹿の風邪に罹った自称天才のためにつくばまで行きたくなく、副査の先生ですらリモートで行うもんだと思っていたぐらいでしたが、ここで揉めて学位が取れなくなりでもしたらとんでもなく辛いので、その対面の審査を受け入れることにしてしまいました。しかし、これも今振り返ればですが完全に杞憂で、実際には知り合いの先生のところに行った受賞付きの学生を副査の先生もいる中で自分のご機嫌一つで落とせるわけがなく、感染・後遺症リスクを理由に頑としてリモートを死守しても良かったのでした。でも、当時の私には恐怖に支配されていて、とてもそんな俯瞰した見方をすることはできませんでした。一刻も早くこの地獄を終わらせたかったんです。
しかし、この判断はおよそ半年後の不幸に繋がります。

もう一つは論文誌投稿の準備を議論する体で行われたアカハラ会議。指導教員からはまた延々と怒鳴られました。今回は1対1じゃなかっただけまだマシだったかも知れないですが、やはり参加していた他の先生方はセンター長という強い立場の指導教員を前にイエスマンになってしまっていました。これは予備審査のあとの7月で、こんなことが退学しても続くんだったら本当に死にたいと思っていましたが、この会議以降はアカハラ会議は無くなりました。

そしてもう一つ、今度は対面でした。9月に就職先の先生の還暦ということでそのお祝いを兼ねた研究会が開かれました。ここにあの指導教員も来ていました。まあ来ていたと言っても一人だけ遅れてきて、自分の登壇が終わるとすぐ去っていきましたが。その研究会でそんな先生、他にいませんでした。それで、今思えばどうせすぐ帰ってしまったのでその場にいなかったとか、トイレに言っていたとでも言えばいいし、そんなのにわざわざ挨拶に行く必要なんて無かったんですが、3月の去り際に挨拶が足りなかったというのが気に入らずに発狂して怒鳴り散らしてきたので、登壇が終わってすぐの休憩の時間に挨拶に行きました。「昔から知り合いだったんですね」と、登壇中に指導教員が話していた就職先の先生とのエピソードの何も問題のない感想を伝えると「だから◯◯先生のところに行かせたくなかったんだ」と捨て台詞を吐かれて立ち去られました*2

対面で、他の先生の、しかもその先生の部下になってる人間の前で、その先生のお祝い研究会の場で、そんなこと言うか?とあまりにも信じがたい返答に唖然でした。

学生である私に向かって、自分の意に沿わないというだけで「人間性に問題がある」とか「人としておかしい」とか言ってきており、ここまで書いてきた内容の時点で既に人間性に問題があり、人としておかしいんですが、こんな他人の職場までわざわざ来て人間性に問題があり、人としておかしいところを披露してくるとは、この指導教員は通常の人間の想像をはるかに超えた畜生だなと、その当時も呆れとか驚愕とかそういうものを通り越して、世界中のどの生き物に対してよりも軽蔑の感情を持ったのでした。

ここまで、退学したのに酷い有様でしたが、この後は学位審査以外でこの畜生と対面する機会はありませんでした。令和5年度の後期を以て、遂に安全期に突入したのです。

しばらくして論文誌の採録通知が来ました。これで一回D1の頃に握りつぶされた博士の学位審査の要件をようやく満たすことができたので、博論学位本審査に進むことができるようになりました。筑波大学の私のいた研究科では博論審査の時期が決まっており、年2回だけとなっているため、3月修了者のスケジュールで本審査を行いました。

学位本審査は2月1日でした。博士の研究は既に論文誌が通った時点で終わっていたので、それまでは本当に博論を仕上げて、仕事に没頭するだけの平和な日々が訪れました。そのときの、これまでの3年間地獄が続いていた日々から一転して、遂に平和が訪れたという感覚は今でもまだ覚えています。この審査もまた、指導教員の傲慢で対面でしたが、これが半年経ってから不幸をもたらしました。

まず審査がどうだったかですが、審査会場の指導教員がセンター長をやっている計算科学研究センターに着くやいなや、会場へ向かおうとすると指導教員が口も使わずに顎で場所の訂正をしてきました*3。センターの部屋の配置が全く変わっており、センター長室だった場所が審査部屋になっていました。

それで審査の準備に取り掛かる時に立ち位置がスライドと被るので移動したんですが、これがこの自称天才のセンター長を避けているように見えたらしく、審査中大変不機嫌になりました。

公聴会である審査が終わると審議フェーズに入るので、4人の副査と自称天才のセンター長を除いてその部屋から出ていくことになります。その際、普通は当然持ち物も含めて出ていくんですが、なんとこのセンター長、既にこの時点で頭に血が上って冷静な判断ができていなかったため、「荷物を置いてさっさと出ていけ」と言ってPCごと部屋に残したまま出て行かせました*4

最後審査が終わってから出てきた指導教員には予備審査の時のようにその場で審査結果を伝えられずに「後で伝える」とだけ言われて、中に荷物があって長いこと待たせてたくせ、自分は同じことをしたらセンター長であることの威厳を使い、センター長室という密室に呼び付けて1時間怒鳴り散らし詰問して人格否定をしまくってきたにも関わらず、私の時間を無駄にして去っていきました。まあ結果なんか一言言えばいいだけなのでただの腹いせ、畜生です。

というわけで、最後の最後まで酷い有様で、指導教員の態度が大変悪かったので質疑は答えられたものの合否は結果がわかるまで不安でしたが合格でした*5

その日はあんな人の自殺が日常になっていて誰も気に留めないような狂った僻地*6にただ行くんじゃしょうがないので、今の職場の私の前任の人と待ち合わせして、飲みに行きました。サイゼリヤで豪遊するつもりで結局思ったよりも量が多くて食べ残してしまったのは申し訳なかったです(合格ということでお疲れ様会で奢ってもらいました)。

ただし、その次の日から体調が悪くなります。診断は新型コロナでした。初の新型コロナ感染です。半年前にあの阿呆の言いなりになって対面にせずに、頑としてリモートにしていればあんな苦しい思いはしなかったのに、一人暮らしで体調が悪い中、色々な身支度をどうにかするしかありませんでした。ただ、幸い、職場の一部の事情を知っている人には同情してもらえたように思うので、そういうのを話したり、共有できる相手が大学院生の頃はゼロと言って良かったですが、就職後はたくさんいて本当に良かったです。これのために有給を使ったのはかなり惜しかったですが。

その後ですが、審査自体には合格後も、令和6年3月25日の学位授与式まで、指導教員がいつその意地汚さで学位を取り消してくるんじゃないかと思って本当に気が気じゃなかったです。毎日落ち着きませんでした。兎に角早く3月25日が来てくれとずっと思っていました。でも、時間は有限であり、時は望まないときも望むときもちゃんと流れていきます。遂にその時は訪れ、3月25日、私が散々アカハラ・パワハラを受けて精神を病み、鬱を伴う適応障害になって自殺を考えた筑波大学で、自分の手元に学位記を確かに受け取りました。この時を以て、私は真にD進から4年、修士から数えると6年続いた人格否定・誹謗中傷・ハラスメント地獄から解放されました。あの時の感覚は2年経っててもまだ結構鮮明に思い出せますが、浮き足立つほど嬉しい、やっとだああああああああああああ!っていう感じではなく、ちょっとそれまでの地獄が長過ぎたせいであんまり実感が湧いてこなかったです。とはいえ、自己認識とは裏腹にその事実の力はすごくて、肩の力は確実に抜けました。やっと終わったのか…って感じでした。

学位記を受け取ってまず最初にしたことはコロナ禍で存在しなくなった第三食堂で学位記の写真を撮ることでした。神戸の方では私の教員採用の手続きが進んでおり、学位を授与され次第その証拠となる学位記の写しを送ってくれと言われていました。3月25日なのでかなりギリギリでしたが、兎に角これだけはしなきゃいけないと思って真っ先にしました。むしろ私的には、この写真を送ることを以て、自分以外にも学位の授与の証明を送って、ようやく本当に博士号を取ったんだ、と認識できて緊張が解き放たれ、肩の荷が下りました。

仕事の調子

仕事の方の話はここには書いてませんが、仕事の方も実は順調でした。博士論文はこの令和5年度の後期にはほぼ書き終えていました。なにせ、もう既に研究は終わっているのでいくらでも内容は書けました。こんな記事を書いているぐらいなので、私は文章を書く力だけは割とあって、論文を書くことは(書き出しこそ大変でしたが)書くことそれ自体は苦痛ではありませんでした。というわけで、令和5年度後期は仕事に集中でき、半年ほどで作ろうとしていたものの骨格が出来上がりました。これは後々また学会で賞を取ることにも繋がり、職場でも評価されました。結果として、職場では全然不要の長物とはならず、生き残ることができました。

神戸での日常

また、プライベートはお出かけのことしか書いていませんが、近くの万代とライフには散々買い物に行きました。特に万代は至近だったのでものすごく重宝しました。ライフは関東にもありますが、「パクパクですわ!」の万代は神戸での思い出の代表的なものの一つになったと思います。ライフと比較すると安いものと高いものが入れ替わったりすることもありますが、全体的に安い傾向で、それでいてロピアとかと違って普通のスーパーでした。唐揚げ弁当と焼肉弁当を毎度買っていました。

食べ物屋はちょっとレパートリーが微妙で、結構牛丼屋かマック(こっちではマクド)になりがちでしたが、三宮では冒険してラーメン屋を開拓したり、家の周辺でも唐揚げ弁当屋や中華料理屋など商店街のお店を試したりしていました。家の近くの京都王将は一番近かったんですが、一回行った時に洗剤が混じってたのか水の味が明らかにまずい水で、それ以来しばらく、少なくとも令和5年度中は遠のいてしまいました。
一方で、三宮ではこの年の前半はお店を開拓して色々行ってましたが、後半は大阪王将によく行ってました。翌年から帰る時間が夜遅くなることも多く、お店自体が閉まってる事が多くて行く機会が減りましたが、時間労働制だったうちは開店時間だったのでとにかく大阪王将に行ってました。

通勤でも、阪神電車とポートライナーは私の神戸時代での日常になりました。来たばかりの頃は阪急のシルエットは知っていても阪神電車のことはよく知らず*7*8、しかも、家探しの時に阪神にも阪急にも初めて乗りましたが、阪神で最初に乗った車両がたまたま最古参の5001系で硬い椅子でボロかったので、阪急の方がいいなとか思ってました。しかし、三ノ宮駅の西口と東口を通すかつての駅ビル前の歩道橋がちょうど消滅してしまっていて、阪急からはポートライナーは遠回りだったのに加えて、家からも阪神の方が近かくて運賃も安かったので阪神電車で通勤することになりました。でも、いざ通勤で使い始めたら、最初に当たった5001系は少数派というかむしろレア車両になってて全然当たらず、新しい電車ばかりでした。まあ5001系は椅子さえ阪急みたいに柔らかければイメージが全然違ったと思いますが、何にしろ阪神電車のイメージはちゃんと通勤で使い始めて全然変わりました。阪神電車のブザー、駅のチャイム、放送、三宮駅の開放的な地下ホーム空間は神戸の日常風景として脳に刻まれました。

それにしても、ポートライナーの朝の混雑はなかなか酷かったです。阪神電車は比較的まだ余裕があって、関東との違い、関西の居心地の良さを感じていましたが、5類移行前後にして朝9時台のあの混雑は関東の高専時代の朝ラッシュよりはマシでもなかなかキツかったですね。ポートライナーは今年の4月から通勤で使わなくなったので思い出入りしてますが、ポートライナーの思い出はわりとこの混雑でした。

気付いたらもう28歳、学位取得後のその5に続きます。

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*1:退学なのに許可が必要なのは意味わかんないですが。

*2:漫画や小説の登場人物もびっくりのクズっぷり。現実は小説より奇なり。どう考えてもこんなクズは刑務所にぶち込まれてた方が世の中のため。こんなクズどもに対してそれができないのは日本の不健全さそのもの。司法の敗北。

*3:言葉で示さないところが畜生であることに疑念を持たせない。

*4:なお、これは公聴会であり、私自身が発表者なので後で発表の見直しをするために録音していたんですが、PCを強制的に置き去りにされたことで後で録音を確認したら私が追い出された後の審査の内容まで録音されていました。私の意図したところではないので私になんら罪はなく、審査が行われていた際に盗聴していたわけでもないので審査自体になんら影響は無かったですが、その録音内容では私に対する非公開の場での侮辱発言が多数含まれていました。本当に最低の畜生です。誰一人として副査の先生に不合格と言われなくて本当に良かったです。もし一人でも不合格の副査の先生がいれば、あの時の畜生なら勢いで落としていた可能性だってあったと思います。

*5:指導教員からの結果のメールはだいぶ時間が経ってから来たので先に意図せず録音してしまったものを確認した際に結果は既に知っていました。

*6:ここは単にディスっているわけじゃなく、実際にここで負の再生産が続いているからです。このあたりの闇は次のその5の記事に書くと思います。

*7:来たばっかの頃は、関西では阪急の方が高級なイメージとかいうのも全然知りませんでした。もっとも海側の阪神沿線の方が明らかに都会なので所詮阪急の宣伝戦略に過ぎないですが。阪急側はいっくら家が田舎みたいにデカくて眺めが良くても、スーパーは禄に無いし、坂だらけで電動自転車でなければ移動できないというのが現実です。もちろん本当に値段では高級なのかも知れないですが、生活面では阪神沿線の方がずっと便利です。西宮北口だけは栄えてますがあそこは六甲山麓からは外れてて、山の上の高級な阪急沿線という感じではないです。阪神は基本的に普通の人しかいないけど、阪急に乗ってるとたまにP活女子っぽい年齢と格好が釣り合ってない人を見かけたりとかもありました。東京でも同じようなことが起きてると思いますが、そういうイメージ戦略に騙されてしまう層は変わんないのかもしれないです。

*8:あと、言われてることと全然違って、JRが最も殺伐としていて、初乗りも安いからかちょっとアレな人が多くて遅れる事が多い印象でした。事故も多くてなんとなく車内も暗い雰囲気だったので少なくともJR神戸線はなるべく避けてましたが、遠出するときや急いでる時には幼少期から知っていた、関東には無い夢の新快速は重宝しました。

30歳になって、20代の振り返り(その3、D3)

前回の記事の続きで、20代の振り返り(D3、26歳〜)を書いていきたいと思います。D3もD3で分量がかなり多いと思いのでD3だけになりそうですが、書けるところまでこの記事に収めたいと思います。

ちなみに、この記事の途中までは前々回の記事の投稿時点で書いていたんですが、すべてを書ききることが叶わず、その後はブログをゆっくり書く時間が確保できずに、いや、正確に言うと、メンタル的に色々思い出すのがキツくてなかなか手を付けることができず、遂にこの部分を書いている時点で令和8年5月1日、ゴールデンウィークになってしまいました。20代が終わってからあと1か月で半年が経つような頃合いです。

というわけで、ちょっとだけ30代になった感想を記録しておこうと思うんですが、なってすぐの時点では「ああ、なっちゃったなぁ」という感じでそんなに感銘も無かったんですが、しばらくしてから、時期にしては2月3月あたりから「もう20代じゃないんだ、辛いなぁ」「俺の20代ってなんだったんだろうな」と思ったりすることが増えてます。
あとからジワジワ来る感じでした。

あと、20代の振り返りをブログに記録する作業がずっとToDoにスタックされてていい加減負債になってきたので、GWのうちにある程度主要なことを書いて公開してしまって、ディテールは後で追記する形の予定です。本当は書きたいこと山ほどあるんだけど、果たしてこういうのは文章じゃなくて音声(Vlog)で記録したほうが編集作業が手短に済んで良いんだろうか?と思ったりもしている今日此の頃です。。

D3

令和4年、2022年、26歳。この年が20代のみならず、この記事を書いている時点で人生で最も最悪の地獄の1年でした。前回の記事の時点でもだいぶ地獄だったのをしっかり記録したつもりですが、よく、今こうして生きているなと本当に思います。
小、中、高と嫌な思いを結構してきましたが、そんなの比にならないぐらい酷かったです。第一、死にたいと思ったことはあっても、死ぬ方法を考えて本気で死のうと思ったことなんかD進するまでありませんでした。なんか「私さんは若いからこれから苦労することもあるだろうけど」なんて(若干の嫌味を感じることを)言われる機会が今もあったりしますが、氷河期世代ならまだしも、もう今の時点でバブル世代の並の60代よりよっぽど屈辱を味わって苦労している自信しかないです。
この年が今後も最も地獄だった年であり続けることを本当に切に願っています。

D2は薄っぺらかったと言いましたが、この年はちょっとの朗報と大量の絶望的なことが複数あったので、所詮薄っぺらい1年でもD2よりは濃い年でした。

まず、D3になる頃にはあらゆる会議の音声を録音するようになりました。
後からならなんとでも言えるので、他人になったつもりで言えば「記録の開始が遅い」ですが、当時はあらゆることが億劫になっていた中で本当によくやったと思ってます。
今聞いても酷い内容で、聞く人によっては途中で気分が悪くなって聞けなくなる内容だと思います。

会議についての補足ですが、D2の後半から、指導教員から月一で1対1の会議を強要されていたので、大学の会議が一つ余計に増えていました。ここでは密室だったり誰も聞いていないZoomであることを良いことに、指導教員の自己中心的な思い通りにならないという不満をぶつけるべく、それまでよりも酷いことを言われ続けました。
第一、感染リスクのために明確に対面を拒否しているにも関わらず繰り返し対面を強要し、私が大学に用事があるときなど機会を見計らってセンター長室に閉じ込めては罵声を浴びせられました。
そして、この会議を拒否しようとすると「学位審査で落とす」と脅してきたので、これまでの経緯からも何をしてくるかわからない教員の言うことに従わざるを得ませんでした。「歯向かうと余計に不幸になる」というマインドコントロールをされていました。

D3に入った時点で、これまでの経緯から順調に研究を進められる環境ではなく、残り1年で学位を取るにあたってものすごいプレッシャーの掛かる状況でした。

ただ、こんな土壇場においても指導教員からは適切なアドバイスはなく、それどころか足を引っ張るようなことばっかり言われ続けていました。それには録音に大量に記録されている指導教員からの止まらない小言の罵詈雑言ももちろんそうですが、研究のマイクロマネジメントも大量に含まれています。

実装方法についてはこうした方が良いとわかっていても、端から指導教員が話を聞こうとしない、なにか話せば話を遮って理解力が及ばない部分をこちらに責任転嫁して怒鳴り散らす、自分の理解が及ばないことについて「お前の説明が要領を得ない」、こちらの説明には「聞いたことにだけ答えろ」と言ってくることから、提案すること自体が不可能でした。会話はキャッチボールですが、会話ができないモンスターとの打ち合わせに毎週必ず付き合わないといけなくて、月一で対面で会わないといけない状況に置かれたら、自分もモンスターか、そういう状況を乗り越えた人でない限り、誰でも鬱になると思います。笑い話ではなく、おかしくなって研究室ごと爆破するとか、焼身自殺するとか、そういう事件も日本で過去に起きています。私もそういうことが頭によぎっていました。

この頃は親も世間体を優先して根性論を振りかざし、精神科医にかかることは情けないことだなどと言ってくるわ、英会話も行けなくなって、某研もやめてしまって、プライベートでもうまくいかないことがあって*1、民間への就職もしっくり来るところがなくて受けてもうまくいかず、まともにやり取りがあるのが研究室ぐらいだったので、本当にこの世で生きるのをやめることに対して、ストッパーになるものが無くなっていました。

それでも、この1年頑張らないと学位が取れない、逆にこの1年頑張ればこのアカハラ指導教員とはスッパリおさらばできると信じて、ちょうど3年前(と書いてますが、年が明けてGWになってしまったので現時点では4年前)の今頃、特に8月ごろは必死に論文に繋がる評価をしようと実験試行を頑張ってました。
もしこれがD3じゃなかったら、もしくは学位が取れないことがこの時点で確定してたら……多分開き直るなり、自暴自棄になって全然違うこと、最悪の事態も本気であったと思います。結構自分も周りも驚くぐらい普通の人がやらないようなことをやるときはやる人間なので。

そんな折、8月の終わりだったか9月の初めだったかに突如として卒業した後輩から就職の話が舞い込んできました。大研究室の別チームの後輩で私のチームの後輩じゃなかったですが、席が近かったので結構話す機会があって、私の研究内容を知っていたのでちょうどいいんじゃないかということで紹介してくれました。それが今雇ってもらっている職場です。まさかのアカデミアでしたが、前任の人と、今の上司とトントン拍子に話が進んで、無事就職できることになりました。極限状態だったので何かしらストッパーとなるものが天から降ってきたんだ思えなくないんですが、9月の面談のおかげで、完全にストッパーが存在しない状態からは救い出されました。
そういえば、大学院に入ってからここまで良かったことを一つも書いてなかったですが、ここでようやく一つ「就職」という良かったことがありました。

でも、これで喜んでいられるのも束の間でした。

就職先が指導教員に知られると間違いなく就活を邪魔されるだろうということが想像できたので、内々定をもらってからその話を指導教員に話しましたが、それを話したところ案の定激昂してきました。理由は2つ、一つは「自分の知り合いの先生のところにお前みたいな出来損ないを行かせたくない」ということで怒鳴りつけられ、もう一つは「自分の委託されているプロジェクトで就職先の先生の成果を評価する立場なのに、お前が行ったら俺が気を使うことになるだろ」というものでした。どちらも審査で脅すことができるからといい気になった指導教員の身勝手な自己都合の言いがかりでした。日時のはっきり分かる形で録音データに記録されていますが、こういった内容で1時間怒鳴り続けられました。指導教員の委託されているプロジェクト委員のことなんか学生の私が当然知る由もないわけですが、知らないこと込みで「俺の忙しさを一切考慮しない、忖度が足りない」といったことで怒鳴りつけられました。しかも、「就職はどこに受けるか、受けた時点でいちいち報告しろ」「それが普通だ」「25過ぎてもそんなことも分かんないような常識知らずで大丈夫か?」「人としておかしい」という内容の発言までされました。
というわけで、予想通り就職先を握りつぶす発言をされたので、ちゃんと決まってから報告して大正解でした。就職先なんて学生の自由に決めるものであって、そんなの別に普通だと思いますが、こういうことまでマイクロマネジメントしてマインドコントロールしようとしていたのを振り返るだけで本当に許せない気持ちと、腹立たしさが蘇ってきます。もちろん今でも許していません。今後も許すことは死ぬまでないでしょうけど。

そして、しばらくすると更に悪い知らせが来ました。8月に頑張って評価データを出して論文にまとめて投稿したんですが、評価が不十分ということで不採録通知が来ました。
この論文誌もまた、内規で査読期間が本来3か月であるところをそれをオーバーして遅れて通知してきたので、当時はかなり焦燥感とプレッシャーがありました。この査読が通らなかったら予備審査を始められず、今年度中に修了する事ができない状況で、指導教員からもそういうことをずっと言われていて本当に辛かったですが、悪い方が現実になってしまいました。
この時にもまた、「査読が通らなかったことで就職先に迷惑がかかるのを分かってるのか?」と、指導教員自身の指導力の欠如、もとい、指導を放棄し、メンタル面でもマイクロマネジメントでもこちらに悪影響を与え続け、研究の邪魔をしてきたことを棚に上げてこちらに全ての責任を責任転嫁する発言をしてきました。本当にありえない話だと思います。でも、そういったことを実際に言ってきました。録音があるというのは、聞いてると嫌になってきますが、こうやって実際にあったことを記録するうえでは本当に役に立ちます。あの時の自分の勇気は4年経った今でも、本当にかけがえのないものです。

指導教員はまたも「大人の話は大人だけで話す」「お前が査読を通らなかったからその説明をするんだから本来なら感謝するんだぞ」「ありがとうございますと言え」などと感謝の強要を含めたこちらを侮辱する発言がありましたが、幸いにも非常勤という扱いながら、就職先には受け入れてもらえることになりました。これが指導教員からさんざん邪魔されても無くならなかったのは本当に不幸中の幸いでした。今思えばそういう運命だったんだろうと思います。

その後も指導教員からはさんざん侮辱発言をチームの会議でも、個別に呼び出された場でもされ続けましたが、時というのは楽しいときは無常でも、こういう辛いときは強制的に終了に向かわせてくれます。就職先の人とのやり取りも一筋の光であり、私の希望で、この地獄に一旦区切りを付けられると、気分を明るくさせてくれました。

この間、前回の記事に書いたように家では周辺のららぽーとやアコレ、山岡家、吉野家やすき家を往復する生活でした。リモートだったので家にいる時間は長かったですが、ずっと家にいたわけじゃなくて、あまりにも気分が悪いときはららぽーとをうろついたりしていました。商店街方向にあるジェーソンやマルエツ、郵便局、図書館、ららぽーととは反対方向にあるショッピングモールのモラージュ、ケーズデンキやヤマダ電機、コジマ、かっぱ寿司、西の方のフライングガーデン、ゆで太郎、たまに柏駅にも行ったりして、それが気分転換になっていました。極限状態でしたが、一方で言いなりになるなんて冗談じゃないという強い意思も常にあったので、最低研究時間を決めて、それ以外は趣味や買い物で結構動いていました。このあと神戸に異動しますが、神戸時代よりも周辺エリアには意外と出かけていたと思います。

引っ越す前にはもうちょっと広域的に冒険して、我孫子の手賀沼や、野田線沿線のラーメン屋神道家に行ったりもしました。ちなみに、引っ越した当初は業務スーパーに行ってて、沖縄時代が懐かしくなりましたが、場所がマルハンの治安の悪い建物だったので段々行かなくなりました。かなり経ってからあそこにラーメン二郎ができたので一回行きましたが、それが最後だったと思います。また、駅の東側の東大の方にもちょっと行ったり、引っ越してすぐと引っ越す前にもう一回?ぐらい柏の葉公園にも行きましたが、キャンパス駅の東側は自転車では結構遠くて他の方向と比べてほとんど行きませんでした。

あと、一回だけだったかも知れないですが、近くの柏公設市場の中のラーメン屋にも行きました。意外と神戸時代と比べてマンネリ化を避けて色々飲食店は冒険していたなと思います。たぶん比較的平坦かつ道がまっすぐで、自転車で移動しやすかったのもあると思いますが。あと、関東だったのであんまり気を使わなくても良かったのもあるかも。完全に知らない土地で地元感ある店に入るのは、観光じゃなく住んでる土地ほど抵抗があるけど、千葉だったので。

ヨークマートの方にももうちょっと行きたかったんだけど、手前の地金堀がいつ通ってもエライ悪習を放っていたので自転車ではあんまり近づけませんでした。ココイチ入ったこともあったけど。あのドブの臭さは決して普通の下水とかとは違って、トイレの排水口が繋がってんじゃないかという感じだったんですが、真相はどうだったんだろう。上流は割と近くの貯水池だったので、悪臭の原因は公設市場から垂れ流されてる何かだと思うんですが。

こうやって振り返ってると柏の思い出も意外と多くて、懐かしくなりますね。振り返る前は柏の頃は引きこもってばっかで大学院では嫌なことだらけで辛かったじゃん、って思ってましたが、案外週に2回ほどあった研究室のこの世の終わりみたいな会議以外の時間のほうが長くて、会議以外の体験の方が支配的で、自由に過ごせてたんだなって思えました。いや、そうじゃなくて嫌なことから逃げたくて、頭からそういうのを強制的に排除するためになるべく外に出てたり、別のことをしてたんだった気もしてきた。とはいっても、引っ越してつくばから解放された当初のD2はともかく、やっぱり最後のD3はかなり色んな不幸があって心が抉り削られましたが。

大学院生の最後の方、地獄の研究室を去るタイミングでは、酷いアカハラを2つ受けました。一つは「お前みたいなやつにいつまでも居られたら困る」と言われ、退学を誘導されたこと、もう一つは私の博士の研究なのに強引に指導教員に国際会議で成果を発表されたこと*2。どちらも筑波大学には通報しましたが、結果はお咎めなし。大学も腐ってて、それも私が心療内科に通い続けている原因です。

前者は退学して学位を取るか、働きながらも学籍は残して学位を取るか選べ、という発言の前後のタイミングでした。要約すると、学籍を残して学位を取ることを嫌って出て行かせたかったという趣旨です。また、退学して学位を取るのは3年間で取らないと審査基準が課程博士と同等ではなくなり、学位取得のハードルが極めて高くなる*3のですが、「3年で取れないようなら博士の資格はない」などと、もちろん面と向かって言われました。さらに、退学して学位を取る場合の学位の種類の扱いは大学によって変わっており、東工大では課程博士でも、筑波大学は論文博士という扱いなんですが「論文博士と課程博士の違いは海外ではわからない」などと都合の良いことだけ言って(国内での扱いについては言及せずに)退学することを勧めてきました。つまり、指導教員のエゴで退学させようとしてきました。

もっとも、この当時の私は既に限界であり、こんな指導教員のアカハラ・パワハラを受け続けることは死に直結する状況だったのでやむを得ず、指導教員のアカハラがなければ学籍を残していたところ、退学を選択しました。もちろん、学籍を残すということは学費を払うことになっていたので、それはそれで損でしたが、この選択をするうえでそこは重要ではありませんでした。

論文博士になったことで今日まで不利益を受けたことはありませんが、今思えば、その後の私の人生を左右するかも知れないことを、こんなに軽々しく、自分のエゴを優先して、時にいい人振りながら不利益を被るように誘導する姿は、形は人間でも、私の目にはとても人間の姿には見えませんでした*4。本当に許せないです。

コロナ禍

コロナ禍も20代後半の思い出なので記録しておきたいよね。

外に出てても電車に乗ることはほぼ無かったので、マスクこそして防衛してましたがコロナに罹ることはつくば、柏にいる間はありませんでした。ワクチンは2、3回ぐらい大手町の自衛隊のワクチン接種に行ったと思います。柏市は高齢者のクレームを優先して、当初年齢問わず平等だったのに若者のワクチン接種機会を削りやがったので*5、柏市のやつを打ったのは最後に一回柏駅のヨーカドーで打っただけだったと思います。っていうかそれはワクチン接種証明を見ればわかるんだけど。

つくばの頃も打ったはずだけど、覚えてない。自治体のやつは大体いっぱいだったから、もしかしたら自衛隊のうちの一回はつくばの頃だったかも。なんかあんまりにも予約取れなかったからそうした気もする。

コロナについて一つ、語り継いでる嫌な思い出を。
指導教員がコロナに感染した際、それまで「コロナは風邪」「罹るような学生は全員馬鹿」などと散々な言いようでしたが、自分が罹った途端に発言を180度回転させて「罹った人間を馬鹿にするな」と言っていたのはまだ笑い話。その馬鹿の風邪に罹ってしまった自称馬鹿ではなく天才の指導教員の自宅待機期間中に書類が必要になって連絡を取ったところ、私が散々コロナに感染した場合に過去喘息だったので後遺症リスクがあるということを言い続けていたにも関わらず「自宅まで書類を取りに来い」と命令してきました。この時点でもイカれてますが、これを拒否して事務に電子データでどうにかならないか聞いてみます、と伝えると指導教員は「そんなことをしても無駄だから兎に角家まで取りに来い」と言ってきました。私が口を酸っぱく後遺症リスクについて言及している以上、どう考えてもわざとだとしか思えないですね。しかもその家、つくばどころか土浦(の駅から遠い場所)なんですよ。柏の葉キャンパスからは明らかに直接行けない場所です。定年間近のジジイが未来ある若者に腹いせで命の危険を晒す殺人行為のパワハラです*6

あまりにもすごい話なので何かあるたびに私は周りにこの話をしています。メールのやり取りの証拠もしっかり残っているので。

というわけで、その4に続きます。いよいよ社会人編。

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*1:ここでは具体的言及は避けますが、犯罪の被害に遭いました。

*2:通常は発表者が誰だろうが著者は研究成果への貢献順。別に主要な貢献者がいれば発表者でも第二著者ですが、この発表は指導教員が第一著者。他はもちろん私が第一著者。他の学生の成果を発表したときには指導教員は第二著者。どう言い訳してもアカハラ。

*3:論文博士の基準になる。

*4:どこかで書いているかも知れないですが、この指導教員は韓国籍でした。これはパスポートが韓国という発言から確定です。これまで書いてきた数々の邪道が一般的日本人の倫理的感覚でないことは無論言うまでもないことですが、日本人と感覚や認識が異なる部分は他にも多数存在しており、日本人蔑視発言も多数ありました。少しでも(本人は小3までと言っていた)反日教育を行っている朝鮮学校での教育を経た人物の一人の、その感性として大変参考になりました。

*5:これはもちろんネットで炎上してた

*6:こういうことをしてくるんですよ。殺人罪。とても日本人の感覚ではない。

20代最後の年、20代の振り返り(その2、D2)

前回の記事の続きで、20代の振り返り(博士課程2年の25歳〜26歳)を書いていきたいと思います。ここから先は特に精神的にキツい描写が出てきます。記録のために*1ありのまま書くので、あまりにも読み進めて苦手だと思う場合はその時点で閉じてもらったほうが良いかもしれないです。

なお、この記事を最終編集してる時点でもう12月から更に月日が経ってR8年5月になってて、20代最後の年じゃなくなってますが、この記事の内容は大方12月以前に書いた内容です。この間、記録したい気持ちは山程あっても、辛い日々が多くあるのを分かっていながら振り返るのはそう簡単にできることでもなく、それが邪魔をして進めるのが億劫になっていてなかなか進められませんでした。そういうわけで、その2ではタイトルに「20代最後の年、」を入れてますが、その3以降は代わって「30歳になって、」にします。

大学院博士課程 D2

コロナ禍で始まり、アカハラ・パワハラの集中攻撃を受け、精神的に修士時代よりもかなりの傷ついたD1(博士課程1年)。そんな中で、翌年のD2になる2021年、大学がもちろんリモートできるならリモート推奨だが、対面も一応OKという事になり始めたところで、指導教員から呼び出されました。リモートをやめて対面で出てこいというものでした。その時のやり取りは密室下で1対1だったので完全に指導教員からの脅迫で、後遺症リスクがあると伝えても、「後輩の面倒を見るつもりはないんだな?」「まだコロナが怖いなどと言っているのはおかしい」「コロナはただの風邪だ」などと延々とこちらがおかしい、悪いかのような口ぶりで対面を強要してきました。尤も、研究室には後輩は来ていなかったし、リモートだって別にZoomで問題なく打ち合わせできるわけで、これら全てが当てつけでした。なんなら、私は他のドクターがやらなかったので大研究室の輪講のマネージャーを、強制免除されるD3以外の2年間も担当して後輩や研究室全体に貢献させられていました。

結局、私から「後遺症になったときの医療費はどうするんですか」と言ったことで「そんなものは払う必要がない、そんな法律無いんだから」などと言ってきたものの分が悪くなり、そのあともグチグチ言っていたものの、向こうが「じゃあ君は後輩の面倒を見るより、コロナが怖いから自分の健康のほうが大事なんだな?そういう人間だということがわかった、結構だ」などと捨て台詞を吐いてこの密室下の脅迫は終わりました。
1時間ほど部屋、それもただの居室などではなく、指導教員自身が長を勤めるセンター長室に閉じ込められて、捨て台詞のような発言を延々とひたすら言われ続けました。もちろん、会議中は本当に嫌で、終わってからも心が落ち着きませんでしたが、このとき会議は録音をしなきゃいけないと強く思うようになりました。
ちなみに、私の在学中に体調不良で休学、その後復帰することなく退学する人や、毎日嘔吐していて大学に来れず精神科に通院する人も居ました。私ももちろん通院していたし、前の記事に書いた通り、当然常時気分が落ち込み、夜中寝れなくなったので抗うつ剤や不眠症で薬を飲んでいました。飲んでも寝付けないことも多くてお陰様で老けました。

やりたいことや研究はもちろんあったものの、こんなアカハラ研究室にいつまでも身を置こうと思うほど自分の人権を捨ててはいなかった、言い換えればまだ生きる意志はあったので、私は先の国際会議の件のあと、穏便に出ていく方法を考えました。その中で、連携大学院の某研究所(以下、某研)に出向してそこでの研究で学位を取れるという制度を発見し、指導教員に話してOKをもらって、D2から共同研究先の某研のRAとして研究をすることになりました(尤も、コロナ禍なのでリモートです)。しかし、ここでおかしなことが起きます。
指導教員は自分の都合のいいように制度を解釈し、某研の先生にもそのおかしな解釈で話を通していたため、本来某研の下で学位を取る研究に集中するべきところを、指導教員の指示する作業も行えと言い出し、2つの研究を同時に進めることになってしまいました。そればかりか、某研の会議になぜか指導教員も参加すると言い出してきました。私はこの制度が某研の方で研究を進めて学位を取る制度であるという説明を最初にしていましたが、「某研の先生とのやり取りは大人のやり取りだからこっちから説明する」などと言って、そこで最悪の根回しをされていたようでした。これで指導教員の支配下から逃れられなくなったどころか、逆に研究作業量が2倍に増え、週2回、某研と大学の2つの進捗報告会議が発生して、2回指導教員から罵声を浴びせられ怒鳴り散らされる更に悲惨な日々になりました。また、この計画が失敗したことで、希望が薄れ、この状況を変えようということに対する視野が狭まりました。このことはこの後のメンタルにも大きく影響してきます。

D1の頃はまだ多少は余裕がありましたが、この頃になると本当に精神的余裕はほとんどなくなり、自由時間も少なく、まさしく「失われた20代」になりました。当然こんな状況に耐えられるわけもなく、7月にはもう限界に達していたので7月末から1ヶ月間研究を休むことにしました。
ちなみに、当時某研からは安月給で雇われていましたが、有給休暇がたくさんついていたので、これをすべて使うことで帳簿上でも本当に休みしました。また、長く休み過ぎたら学位が取れなくなるということも考えましたが、この有給休暇の量が1ヶ月分だったので休むのも1ヶ月でした。大学のRAも別途1ヶ月無給にしましたが、指導教員からは会議には出ろと言われました。
これは指導教員から許可が出ると思えなかったですが、「自殺でもされたら俺が困る」と指導教員から直接言われて許可されました。実際にメンタルがズタボロになって希死念慮(自殺願望)が芽生えて、毎日死にたいと思って、死ぬことを考えていましたが、こんなこと他人に直接言うなんて如何に指導教員が人として狂っているかがよく分かりました。何より、学生が心配なんじゃなくて、自殺されると自分が困るからという自己中心的な本音を吐き捨ててきました。これを録音していなかったのは痛恨の極みであると今思い返しても思いますが、当時は毎週の会議に耐えることで精一杯でなかなか録音するところまで頭が回らず、行動に移せない日々が続きました。

当然1ヶ月程度では回復するわけ無いんですが、どんな理由をつけてまた理不尽なことを言われて怒鳴りつけられるかわからないという状況だったので、恐怖から常に緊張し、引き攣っていたものが一時的に離れられてマシになっていたと思います。何より、時間的にも支配されていたものが解放されたので、それまでできてなかったことを色々と進めました。尤も、メールのやり取りなどはあり、何か一つ気に食わない事があればどんな理不尽な内容であっても激昂し、こちらに責任転嫁し激詰めする内容でメールを返してくるので、直接口頭で罵倒されないだけで、常に心理的安全が確保されることは無かったです。

実はこうなる少し前に多少状況を変えようと引っ越ししました。大学の近くはゴキブリとスズメバチが襲ってきて住環境として最悪だったのに加えて、家族になるべく近いところにいたほうが心理的に良いと考えて、大学と実家の中間のところにしました。もちろん命の危険を感じていたので、またいつ指導教員から脅されて強要されそうになっても大丈夫なように物理的にリモートが継続されるようにしたかったのもあります。TXの終点からTX沿線の柏市に引っ越しました*2。完全に一人ぼっちでしたが、それまで毎日のように玄関付近でGを見かけて家へ侵入されないかビクビクしていたゴキブリハウスと違って、広くて綺麗で日の当たる部屋にしたので、メンタル面にも良い影響がありました。結果として物理的に鬱状態の病原体から距離を置いて離れられたので、影響を抑えることができました。だから、その御蔭で休んでた1ヶ月間がマシなものになりました。なにより、柏駅まで出れば色々あるので、気分転換になりました。

あと、引っ越してからは近場のららぽーとに行くことが多かったです。ちょっと高いけど、昼食はフードコートで1000円行くかいかないかぐらいのを食べていて、それが唯一現実の楽しみでした。
たまに行く肉の万世も良かったです。ランチは案外1200円ぐらいでロイヤルホストより安くて、ジュースが付いてご飯味噌汁おかわりOK(だったはず)なので、昼間は空いてるしありがたかったです。ただ、身なりを整えるような余裕はとても無かったのでヒゲモジャで行ってて店員さんからは見合わない客だなと思われてたかも知れないですが。

近所のチェーンじゃないお店もコロナ禍で空いてることが多かったのでハンバーグを食べによく行ってました。段々混んできて遠のきましたが。
逆に引っ越し当初はそうでもなかったけど、昼夜逆転している中、24時間やってる山岡家に深夜に突撃することが増えていきました。
もちろん、吉野家やすき家も(特に朝食時間帯は)行ってましたが、結構真面目に食べ物ぐらいでしか幸せを満たせなかったので、せめて食べ物だけでも美味いものを求めてました。

ここで、もう一つ書かなきゃいけないことがあります。指導教員から「英語がメチャクチャだから英会話学校に行けば?」と煽られて(バカにされながら)言われていたんですが、当時は国際会議の前で、私自身英語力が低いことの問題意識があったので、聞き入れてD1の初めの方に週2で通い始めました。まあ、そのおかげもあって、余計に自由な時間は少なかったんですが、引越し前の教室のスタッフさんはみんな優しく、ボロクソに言われて病んで卑屈になってる自分にもフラットに接してくれていたので、それもまた自殺という最悪の事態のストッパーになっていたんだろうなと今になって思います。当時はそんなこと思える余裕は無かったですが。
そして、これを柏に引っ越してからもしばらく(9月まで3ヶ月)は続けてたので、丸井のある柏駅に強制的に行く機会が発生して、それが出かける機会を生んでました*3

ちなみに教室をやめたのはもちろん忙しくて教室に行くのが大変なのもあったんですが、現地に行くことは気分転換になっていたのでそれ自体ではなかったです。それより毎度宿題が出ていて律儀にやると結構時間が掛かること、自発的に英語を話したり、英語を聞く、読む抵抗は無くなっていったものの、会話できるようになったかと言われると英文組み立て能力とリスニング力は上がらなかったこと、何より最後に行った回でめちゃくちゃ人数が多くなってて、練習に効果的とは言えなくなってしまっていた&コロナ禍だし危ういと思ったことが理由でした。その後も、松屋に行きたくなって昼夜逆転してるから早朝自転車で行ったりとか、市役所なり免許更新なり、度々柏駅には行っていました。

8月が終わって9月に入り、一時的な休みが終わってからも、週2回も指導教員から「自分のしたことは逐一すべて覚えてろ」だの、「風呂とトイレと食事と寝る時間以外はすべて研究しろ」だの、後輩と比較してこき下ろしたり、ただでさえメンタルブレイクしていると指導教員自身も認識していて、メンタルがボロボロの状態で本領発揮できない中、さらにボロクソに罵倒され、怒鳴りつけられ続けました。また、何もわかってないのに実装方法についてマイクロマネジメントされ、それがうまくいかないことを説明しようとすると、最後まで聞かずに話を遮って「日本語の能力が無い」などと罵られたりもして、指導教員の本質的ではない細かい揚げ足取りのせいで、研究もろくに進みませんでした。このあまりにも辛い状況に耐えられず、しかもこんな2つも研究を並行するという通常ありえない状況をこのまま続けていたら一生学位が取れないと思うようになりました。

そんな中、文科省(ではなく広く国というべきかも)が突如としてJSTを介してこれまでより多くの博士課程学生を経済支援するプログラムSPRINGを始めました。大学から情報が流れてきたのでこれに応募していたんですが、無事に通りました。

実は2つの研究のうち、本来ならD1のときに続けてきた博論の研究を某研でするはずが、指導教員のせいで大学側でD1からの研究をやって、某研でどちらも博論の延長線上にあるからと言って指導教員と共同研究者が考えた別の研究をするという当初の計画、というかこの制度の本来の意図とは全く異なる状況だったんですが、この状況を脱して博論に集中して学位を取るためには、状況的に某研の方の研究内容が元々の研究の傍系のような内容だったのもあって、某研側を辞めるしか選択肢はありませんでした。

指導教員は最初から、研究室間のスライドを阻止する、というかそういう邪推をされて、腹いせ目的でわざとこうなるように意図していたところがあったんだろうと今では思っています。そして、某研を辞めるとなると、もともと大学のRAだったのでそれに戻ることになると予想されましたが、そのRAの給料は指導教員が決めていて、手取りではなく税引前の収入でたったの13万円ポッキリでした。
ちなみに、今後D進する人の参考のために某研に雇われたときの月給も書き起こしておこうと思いますが、某研に雇われたところ全く金銭面でダメージのない大学RAはなぜか減額されて税引前9万になりましたが、某研の税引前16万4千円*4と合わせて25万円ほどになっていました。某研をやめて、また”たったの”税引前13万円だけで生活するのは厳しい一方で、指導教員はこのとき雇われていた某研(税引前16万4千円)について「これだけの給料をもらっているんだからちゃんとやれよ」だの「俺の時にはこんなの無かったんだぞ」だのと繰り返していて、13万円が十分だという主張もしていました。

つまり、ここから上がるのはどう考えても絶望的である中で、朗報としてSPRINGがタイミングよく救世主として降ってきました。

ここで、SPRINGに代えて、大学のRAの給料を受け取るのはやめました。散々指導教員のプロジェクトでこき使われてたし、そのプロジェクトの研究をしているんだからプロジェクトから出る金は受け取るのが本来真っ当ですが、指導教員が繰り返し繰り返し「これだけ金を出してるんだから」などと恩着せがましいことを言ってくるのに耐えられなかったです。指導教員からの金を受け取らないという事実だけでも、実際に指導教員からの金銭的支配から逃れられて、少しメンタル的に解放されると思いました。そしてこれができるのはSPRINGのお陰でした。

ここから半年間はSPRINGと某研からお金を受け取ることになって、指導教員はさらに嫌味で「助教の先生と同じ給料になる」などと言ってきました(実際、助教の先生は100万円単位でもっとずっともらっていたのでありえない話)。しかし、12月頃に「3月までで某研RAはやめます」と指導教員に申告したら、何故か指導教員から猛烈な反発があり、さらになぜか某研の先生からも文句を言われました。
どうやら、指導教員としては研究室スライドに関する個人的感情はあるにせよ、当然、死ななきゃいい程度に思われていてこちらの健康状態は考慮されていなかったわけですが、使える駒としてプロジェクトが倍進むならずっとそうさせたいという意図があったらしいです。
それで、もともとD1時点では某研には雇われてなかったのに「そんな作業量で学位取れるの?」などとこれまた1対1で散々罵られ、こき下ろされました。また、放任主義だと聞いていた某研の先生からも「どういうつもり」というようなことを言われました。これはあまりにも想定外で、既に人間不信になっていたのが余計に酷くなりました。

ただ、当時は指導教員から「某研の先生だって君のこと出来損ないだと思ってるよきっと」などと散々言われてきたので自己評価も自己肯定感も地に落ちてましたが(尤も、学会から表彰されいるので、実際、事実としてはいい駒としてこき使ってきた私を口頭で散々ゴミ扱いしていた指導教員が明らかに狂ってるんですが)、今思えば某研の先生はそれなりに私のことを評価してくれていて、実は教育熱心でまだまだ同じチームで助言して育てていこうと思ってくれていたからこそ出た発言だったんだろうと思います。もちろん、もっと言い方があっただろうとは思ってますが。実際に今も研究の傍ら、学部で授業をしていて、私の博論審査でも過熱する指導教員の攻撃的な譫言が続く中で助け舟を出していただいた場面もあったりしました*5

10月からはSPRINGが始まりましたが、給料の振込は12月からで3ヶ月分が一気に振り込まれました。SPRINGはだいたい税引前月20万円でした。なお、SPRINGはD3で無理やり単位取得満期退学させられるまで継続しました。

なお、引っ越し前の時点でも既に学内の保健管理センターの精神科に通院していましたが、引っ越しを経てちゃんとした学外の心療内科のクリニックへ通院を開始しました。この時点ですでに夜は寝付けず、腹痛も激しい時があり、修士までは便意があればすぐに出たのに、なかなか出ずに延々と腹痛に見舞われることが続くようになりました。D2の初めの時点で体重も極端に増えていました。

最後に、D2はこれだけ書いたので色々あって濃い1年だったんだろうと端から見ると思われるかもしれないですが、全然そんなことは無かったです。なんせこの当時は全く持って寝付けずに浅い眠りのまま何時間もベッドに横たわってて、寝不足で毎日モンエナを飲まなきゃやってられないぐらいでした。流石に毎日1本飲み干してたわけじゃないですが、一日基本的に半分までとかに制限しつつも、とにかくもう健康状態は終わってましたし、昼夜逆転も当たり前にしてました。鬱のときは何も手がつけられずにベッドに横たわって泣いてる時もありました。ベッドに居る時間が長かったし、一つ一つのことに気を向けて、気に掛けられるメンタルなんてなく、やることも意識も中途半端な中でどんどん目まぐるしく目の前が変化していったってだけでした。
能動的に意識を向けて何かをすることは少なかったので、本当に1年という重みも、印象という印象も、今振り返ってみてもないです。

その3(D3)に続きます。

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*1:もちろん振り返りのためというのもあるし、自分が死んだあとも記録として残しておきたいというのもある

*2:別に書いてもいいメンタルになってきたので書く。

*3:でも柏の教室がどんな感じだったか最後の回以外全然思い出せない…。引っ越す前はよく思い出せるのに。スタッフさんは引っ越し前のほうがフレンドリーで良かった。

*4:後に某研のRA給料は上がっていて、今は20万円ぐらいになってます

*5:あと、本当に駄目な場合は容赦なく落とすタイプの先生で、講義では赤点があまりも多すぎるからと上の人が困ってるという話を耳にしていた。そのあたりがおそらく放任主義と言われていた所以。だから指導教員が博論審査を通したとしても、駄目と言われる可能性があると思って最後まで気が気じゃなかった。

神戸税関付近散策、KIITO、日本一短い国道など

神戸にいる間に、行ってなかったところに行ってみようという試みを最近しているところ。
いや、来た頃から試みてはいるけど、最近になって近場でなくなることがより現実味を帯びてきたので、2月辺りからという計画だった。なお、今は3月末。

昨日は起きるのが遅かった上に夜飲み会で行けなかったけど、今日(もう日付が変わってるけどまだ今日)は出かけてみた。

予定では毎週土日に行ってみようと思っていたところに行ってみるという計画なんだけど、これまでの経験から乱れること前提。行けなかったら順々に後ろにずらすだけ。
そして、これをスロットしている最初の週が今週なので、最初っから計画通り(笑)

税関付近は毎度ポートライナーで見かけているのに結局あの辺りに行くことが無いまま3年経ってしまった。ちょうどこっちの家に荷物が来たのが令和5年3月20日だったようなので*1、本当に3年以上経ってる。

R5年度は学位授与式のその日まで毎日が地獄のような日々だったので、なかなか出かけるのにも限度があったが、その後も病んでいて、成果を出さないといけないという強迫観念もあって、行きたいところの候補にこそ上がっていたが結局来ていなかった。

行きは面倒くさいので三宮からポートライナーで貿易センター駅まで行った。この駅で乗り降りすんのは3度目ぐらい?もしかしたら降りたことしか無くて、乗ったことはないかも?今日も帰りは歩きの予定。

駅を降りてすぐのところに「しあわせの村」行きというメルヘン、というかちょっとミッドサマーみたいな行き先の市バスが停まってた。

適当に貿易センターの会議場の横を抜けて、高速道路の下の信号を渡る。遠目に横断歩道がないように見えて、歩道橋まで行くの面倒くさいなと思ったけどちゃんとあった。

せっかくなので、みなとのもり公園を通ることにした。ここも3年間ずっとポートライナーから見下ろしてるのに一度も入ったことがなかった。

来てみたら高架下が運動場みたいになってて、めちゃくちゃ高校生〜大学生ぐらいの子供がバスケとかして遊んでた。ポートライナーの高架下で乗ってるだけだと認識できない場所なので、こうなってるのを知らなかった。

しばらくポートライナー沿いを歩くと、線路のモニュメントと時計台があった。時計の下には鐘が設置されていた。貨物駅だったときに使っていたものらしい。引っ張って鳴らせるようになってたが、流石に向こうで無数の陽キャ高大生集団がはしゃいでるところに一人で鳴らす気にはなんなくて、写真だけで済ませた。当然こういう日のために一眼レフを持ってきてたんだけど、そういえば、貿易センター駅降りてから信号待ちまで存在をすっかり忘れてて、スマホで撮ってた。

ポートライナーからよく見える広場を西に抜けていくと、そこもまだ公園になってて、スポーツ広場で子供がスケボーをしていた。

突っ切ると国道174号線に到着。ここが日本一短い国道だということで、今回の目的地その1の撮影スポット。ちゃんと青い看板に「日本で一番短い国道です」と書いてある。
日本一短くなった経緯は、元々フラワーロードの三宮交差点以南が174号線だったのが、国道2号線の指定が三宮交差点を突っ切らずに南側の高速道路の高架下に移動して、神戸税関の交差点が2号線と174号線の交点になったかららしい。

ちなみに、バイパスに当たる現在の国道2号線は高速道路の高架下に続いているのでともかくとして、元の国道2号線はどこで終わってるのかというと、神戸阪急前の三宮交差点で終わってなくてラウンドワンのところの三宮東交差点からポートライナーの高架下を南下して、バイパスに合流している。つまり、貿易センター駅の直下の通りは実は国道2号線だったのだ。全くそんな認識をしていなかったので帰ってからこれを書いているときに驚いた。

法律上、国道の地下に商店街を作れなかったので、さんちかを作る計画によって国道の指定をフラワーロードから今のポートライナーの下の道路に変更したらしい。2号線の指定範囲変更と合わせて行われた模様。

でも、ラウワンのところまで174号線にしても良かったと思うけど、そうしなかったのはなんでなんだろう?
おそらく高速道路下が国道2号線に指定されたから、わざわざパイパスじゃない元々2号線までの区間を174号にするよりはバイパスの2号線と元の2号線を合流させたほうが法律に忠実ってことなんだろうけど。

その174を抜けると見えてくるのが神戸税関。本当に美しいアールデコ調の戦前建築。ただ、ここには入るつもりはない。後で調べたら昼間なら入れるらしいんだけど、入口は閉まってたのでどのみち行った時間は入れなかった。既に午後5時台。

で、真向かいにあるのがKIITO。ここは事前に21時までやってることを押さえてたので、今回はここに入るつもりで来た。実は来たばっかの頃は神戸税関はポートライナーからよく見えるこのKIITOの建物だと思ってた。KIITOや三菱倉庫などを日が落ちる前に撮って、KIITOの周りを一周してから入った。

なんか入ったらだいぶ暑かったので上着を脱いだ。冬仕様の厚着をしてきちゃったけど、ここ数日は最高気温が20度前後なのをすっかり忘れてた。KIITOの入口側(元々市立の生糸検査所、旧館側)の外観はタイルがおそらく張り替えられていて新しさを感じたが、中は歴史的で壮観。奥まで入ると絵が展示してあって、その奥はホールになってた。外周グルっと回ってるときに反対側にトラックで搬入作業をしてるようだったけど、北側の大ホールはシャッターが半開きになってて入れないようにされていた。南側は展示があったけど、有料だったし、今回は館内を回りたかっただけなのでパス。

自販機が並んでる休憩所を抜けるとズラッと一列に自前のノートPCで作業してる人たちが座っている。現場には何にも説明書きが無かったので、ここはなんか予約の必要があるのか、勝手に休憩してて良いのかなんなのか謎だったので帰ってからググって調べたけど、クリエイティブラウンジというところで、本やPCを持ち込んで作業できるらしい。利用無料。休憩所もパラパラ人がいる感じだったけど、ラウンジはほぼ満席。

休憩所の方は椅子が並んでたけど、強化プラスチック板を接合した手作り感あるものだった。O型のものもあれば真っすぐのもあったり。結構外を歩いて喉が乾いたので、迷ったけど昨日飲み会でちょっと悪酔いしちゃったのが引きずってたため自販機で飲み物を買った。

エレベーターがすぐ近くにあったけど、デパートみたいなデザインの階表示と縁取りだった。しかも、脇に以前使ってたであろう古いボタンまで残してある。これは当然写真に撮った。

この近くに売店?お土産屋もあったけど、なんというか、タダの売店じゃなくて美術館の売店に近い感じ。っていうか、建物自体がなんとなく美術館っぽさがある。なんかそれっぽいものが売ってた。

2階には図書館があるってことで入ろうと思ってたけど、図書館は閉館してしまっていた。でもそれ以外にもイベントスペースとか生糸検査所の展示があった。エレベーターホールの傍にあるイベントスペースはKIITOのコンセプトが書かれた垂れ幕と、美術館や映画?の案内チラシが多数置いてあって、たくさんある休憩椅子で一人休憩してる人がいた。

このエレベーターホール前と図書館側は国立生糸検査所だった新館側で、反対側が旧館。旧館側に行ってみると、図書館はもう閉まってるのに、それとは別の読書スペースがあって、数人が本を読んでた。KIITOの案内やさっきのイベントスペースにあったようないくつかのチラシの他、ちゃんとした本や、グッドデザイン賞の資料集なども置いてあった。持ち出し禁止で閲覧可だったので、適当に見て回ったが、東京墨東のコミュニティ・KIITOみたいな施設再活用工房の本とかもあって面白かった。なんか全体的にそういうデザインとかなんか始めたい人が参考にする本が置いてある感じのスペースだった。

その先に進むと生糸検査所の資料展示ギャラリー。そっちに行く前に階段の写真を撮ってるときに一人そっちの方に行って戻ってきた以外は自分以外は誰もいなかったのでゆっくり見れた。当時使ってた本物の機械と説明書きが置いてあって、奥では同じ映像が繰り返し延々と流れていた。そういえば、映像の協力先に長野県上田市丸子って書いてあって、そういえば丸子は養蚕が主要産業だったな、と思い出した。ここでたくさん説明されている、輸出にあたって厳しい検査していた生糸の主要産地の一つは丸子だったのか、となった。映像のクレジットは撮り損ねたので、覚えてるうちにここに書いておく。

展示の写真の中の人たちはみんな白衣を着ていてかっこよかった。触ってる機械も相まって。引張試験で品質を確認する機械もあったりして、紙に軌跡を書かせる様は機械工業試験そのものだった。

3階にも行ってみたけど、奥に入っていいかわかんないでっかい工房があるだけって感じだった。ただ、周りにいくつか展示があったりした。何より、途中の階段の踊り場や廊下がなかなかの雰囲気で、工房の横の長い廊下は戦前建築の映える場所だった。

反対側の東の神戸大橋から伸びる高架のジャンクション付近まで行ったところで、外がよく見えた。天井にも装飾があって、流石戦前建築。窓も区割りが歴史を感じる。こっち側のエレベーターは普通のやつで残念だったけど、階段はどれもまったく異なるデザインになっていて面白かった。特に、こっち側の端の階段は踊り場の足元に窓があって、下の踊り場と繋がっていて、下の踊り場から見ると上部の窓になる構造だった。こんな構造はなかなか見かけない。
4階まで上がろうとしたが、4階は一般立入禁止になってたので引き返した。

3階の公募の手前に子供が工作して作った水族館の展示があった。ホタルイカとか子供が作った割に下から覗く構造でちゃんと綺麗に展示してあった。

旧館側はオフィスになってるっぽかったが、階段横の廊下では元所長室?が筆書き看板付きでそのままになっていて、おお、となった。それにしても階段に大理石が使われたりしていて、階段や廊下の広さは元々商業施設と言われても十分な広さで、デパートは大げさかもしれないけど、検査所の人しか使わなかったであろう建物が、どこかの市役所、県庁と言われても騙されるぐらいちゃんとした立派な施設で、全体を通して戦前を感じた。

ちなみに地下もあるらしいけど、一番南の階段は壁で塞がれてた。エレベーターではボタンがあったけど、一体どうなってるのやら。

全体的に意識高い施設だったけど、なんかこんな大都会で観光スポットになってるのに、かなりローカル利用を想定したゆるさだった*2

その後は、南の神戸ポートオアシスがなんかやってるんじゃないかと思って行ってみたけど、階段前にロープが貼られてて食堂すらやってなかったので引き返した。食堂の営業時間は元は19時とかだったっぽいけど、コロナ禍で短縮化してそのままになっちゃってる?
かけうどん驚愕の170円*3と外に書いてあったので、機会があったら行ってみたいところ。

その後は三宮まで徒歩で引き返してUCCのカフェでちょっと休もうと思ったけど、20時回っててオーダー終了してた。ちょっとどこ行こうか考えながらJR改札の方まで行ってみたらいっつも並んでる551が珍しく空いてたので肉まんを初めて買った。

その後引き返して、ちょっと前から行ってみようと思ってたしんぱち食堂でご飯にした。干物といえばホッケだと思って入る前はホッケのつもりだったけど、おすすめで注文してみた鯖文化干し定食は人気看板メニューになってるだけあって骨まで柔らかくて美味しかった。あと、文化干しの発祥が出身の江東区だと知った。

写真は大量に撮ったけど、ここに載せるのは時間があったらで。

*1:こっちに来たの自体は17日で、引っ越し費用を抑えるために3日ぐらいはネカフェ生活してた

*2:立入禁止の看板があったりなかったり、入って良いのか分かんない謎の部屋がちらほらあったり、もっと観光客が来る場所だったらまずそうなってないであろう感じ。その分散策はしやすかったし、そもそも私は初訪問なだけで今は神戸市民、ローカル客なので、今回私にとっては都合が良かった。

*3:本場讃岐の店より安い

世界情勢の話(特に中東のイランアメリカ)

Blueskyで書いたものをこっちでも記録。本当はこういうふうにこっちに書きたいことが山程あるけど、全然できてないのでちょくちょくこっちに移すかもしれない。
去年の夏あたりから書き始めた20代の振り返りも結局途中までで全部書き終わってないし。

アメリカ側、ユダヤ側にも大義があるのはみんな分かってる話だけど、いくら大義があるからってやってることが民間人虐殺の外道行為ばかりだと、日本にかつてやった原爆投下や東京大阪大焼殺と変わんないから日本側の立場として受け入れられるもんじゃないよな。
それは帝国陸海軍なり、開戦の経緯なりの日本の立場を全否定することにもなるし。

反戦活動や反日思想の気に入らないところは山程あるけど、米国っていうのはこういう国で、そもそも火炎放射器で防空壕の中の人間を焼き殺すような行いをしてたのに、日本軍の行いや開戦は間違いだった、沖縄戦での防空壕での自決は悪いことだとか言われてるのにずっと嫌悪感しかないんだよなぁ。

本当に歯向かうアジア人には何してもいいと思ってる野蛮人に何されるかわかんない状況で抵抗せずに言いなりになるのが正しいっていうのは、結局米国に従えということであって、それは米国のこういう行為を支持することそのもの。
そういう矛盾することを言ってる人たちは今の米国を否定できるような立場じゃないから、ものすごく虫唾が走る。

残念なことは、こういうことが実際に大規模な戦争が起きるまで聞く耳を持たれなかったことだよな。
現実問題になってから自覚するというのは動物にもできる反射反応であり、背景をまず分析したり、想像力を働かせて当時どのような状況だったか、今後どういう状況になりうるかを考えられる人間に対して極めて動物的であって、戦争が身近になって初めてそういったことが説得力を持って、本来戦争が起きる前に分かっているべきだったことに気付くのは、、、
戦争を知った気になってそれそのものに反対し、平和を叫んでいたのに止めることができず、それどころかそうなって初めて分かるというのは、落語でも笑いが取れないオチ。

何より、アメリカでの奴隷時代にどれほど非道なことをしてきたか、有色人種の差別をアメリカが撤廃したのは戦後20年近く経ってからだったのは決して忘れてはいけない。

ここまで。
それにしたって、言いたいことを言うのがこれほどまでにしやすくなる時代が来るとは博士の学位を取る前ぐらいまでは思ってもみなかった。
色んな嫌な事件があって、自分自身にも嫌なことがあって、でも社会問題の話なんて書いてたら煙たがられると思ってた。まあそりゃそんな周りの目を気にしてどうするんだよって話なんだけど、それでもそういうのを気にしなければ損をするっていうのが大方の世の中の見方であり、たとえ正しくても言って損をするのは言う方が悪く、それぐらいの覚悟をしない奴が悪いというのが大衆の意見だったのが平成の時代だった。周りの人もそんな人ばかりだった。令和5年は私自身大学院生時代のアカハラパワハラ指導教員から物理的に離れられたけど、ジャニーズ問題や松本人志の問題があって社会も大きく変わった年だったと思う。
ブログを分けようと思ってたり、色々整理しようとして躍起になってた夏休みもあったけど、もう分けなくていいかもしれない。
令和になって色々世の中が正される方向になって本当に良かったと思う。