前回の記事の続きで、20代の振り返り(社会人3年目、29歳)を書いていきたいと思います。これが20代振り返りの最終章です。これまで20代後半については辛いことをたくさん書いてきましたが、20代の最後、一部30になってからの現在まで書きます。もはや直近なので振り返りって感じでもないですが。
社会人3年目
ちょうど1年ほど前、教員は2年目になりました。先に仕事の話を書こうと思います。この年、教員2年目になって遂に元指導教員が絡んでいるプロジェクトが終了し、完全に私は元指導教員と間接的な上下関係すら無い、仕事上全く関係ない間柄になりました。
そのこともあってか、それまで元指導教員が出てくる会議を避けていて*1、それでも元指導教員が仕事に絡んでくることに名前が出るだけでもウンザリしてたんですが、だんだん元指導教員の名が仕事上出てくることも無くなり、日常的に元指導教員の存在を意識することも減り、それによってその後の影響を考えて、不安を抱えて鬱になることも回数が減っていきました。そういった変化が少しずつ、自分のメンタルを回復させていきました。この年のメンタルの回復を振り返っていると、前年度まではあの畜生を意識せざるを得ないことが常にあって、そのせいでメンタルの回復を妨げていたんだというのが再認識させられました。メンタル回復の変化を見ると、前年度まではストッパーが掛かっていて晴れなかったものが、この年になってから一気に晴れて、それによって濡れていた地面も急速に乾いていきました。
もっとも、良いことばかりじゃなかったです。元指導教員の存在は仕事と大いに関係していました。前年度に終わったプロジェクトの続きとなるプロジェクトの公募が存在し、それに所属するセンターで応募していましたが、その評価をする立場としてまた元指導教員が存在していました。私はそのプロジェクトのメンバーにこそなっていたものの、直接その審査の模様には関わっていないですし、間接的な上下関係が発生するような段階の手前でした。しかし、元指導教員が私の雇用の行く末を左右することには変わらず、かなり不安でした。そして、その不安は現実のものとなってしまいます。
我々のセンターの提案は不採択となりました。このときの私の心境と言ったら計り知れないです。本当に、未来の色が灰色でした。退学して直接関係なくなっても、所詮この元指導教員が存在し続けることで自分の業界での将来が邪魔され、潰されうるという事実に絶望しました。ただ、その絶望はそんなに長く続くことはなく、職場の上司から次の行き先をすぐに提案して頂けて、そこへ行くことがほぼ決まったような形となりました。いっくら、元指導教員の影響でプロジェクト雇用の道が絶たれたとは言え、自分の業界での立ち位置が無くなったわけじゃなかったのは、この悪い結果のメンタルへの影響を最小限に抑えてくれました。
ただし、これはうちのセンターの元々の設立基盤が脆弱であったこともありますが、プロジェクトが採択されなかったことで、資金源を確保できず、うちのセンターは閉鎖することになりました。こんな非情な現実を社会人3年目にして突きつけられるとは思ってもみなかったです。この結果は元指導教員の影響によるものであったというのも含めて、かなりショックでした。本当に、当時は閉鎖してしまうという実感が全く湧きませんでしたが、現在、翌年の5月の時空では本当に閉鎖してしまいました。その4でポートライナーが既に思い出になったと書いたのはこれが理由です。閉鎖することになった後、センターでは引っ越し準備等でかなりてんやわんやでした。
学会で元指導教員がいたりもしましたが、兎に角極力遠ざけてやり過ごしました*2。いること自体がもう本当に嫌でトラウマでしたが、前年の国際会議でもいたので少しは覚悟の準備ができていました。この年、センター長が変わったので、定年まであと1年のところで学会で見たくもない姿を見ることが多かったですが、これは本当に大学がまともに公益通報で動いていれば見ることが無かったはずなので、被害者がこうも苦しむのはとてつもなくおかしなことですが、ものすごく耐え難い思いをしました。
良い知らせもありました。私が前年度に発表した内容が学会で表彰され、受賞の知らせが来ました。博士課程時代に散々「能力が低い」などの侮辱を元指導教員からされ続けていて、「アカデミアは厳しいからお前では生き残れないので民間へ行ったほうが良い」という悪口まで言われていたので、プライドをズタズタに傷つけられ、自分がこの業界に残ってやっていけるのか、自分の能力は業界にいて十分なものなのか、いっくら職場では継続雇用されるように十分貢献できていたとはいえ、本気で不安が続いていました。しかし、学生時代に1度学会から表彰されたのに続いて、社会人になってからも学会で評価されたことは一つ、私の自信と、この業界に残ってて良いんだ、という自己肯定感の向上につながりました。これがメンタルの回復に繋がったことは言うまでもありません。
生活
この年は前年度前半の反省から、近辺の外出はわりと良くしていました。それまで行ったことがなかった王子公園周辺を散策したり、北野異人館へ行ったり、御座候を買ってみたり、大阪万博へ行ったり、明るい時間の神戸大橋の撮影に北公園へ行ったり、西宮を散策したり、灘五郷の西宮郷を見学したり、三宮のお店を発掘したり、大阪城公園へ行ってみたり、博物館へ行ったり、なんばパークスへ行ったり、もう30歳になってましたが令和7年内に内部見学できなくなる旧ハンター邸へ行ったりしました。
年が明けてからも有馬温泉に行ったり、中之島に行ったり、神戸税関前の当たりを散策したり、六甲アイランドに行ったり、新開地やハーバーランドの当たりを散策したり、姫路城に行ったり、大阪天満宮やあべのハルカスに行ったりしました。年明け後のやつは引っ越しする予定なので、関西にいるうちに行けていないところに行っておこうというので以前よりも多く、毎週末ぐらいの間隔で出かけています。
任天堂公式の抽選はSwitchを持ってなかったので資格がなかったですが、エディオンの抽選でSwitch2も買いました。
皆既月食の写真を撮ったりもしました。なかなか上手くは撮れなかったですがこれまで全然できていなかった、いつもと違うことをするのは楽しかったです。一眼レフカメラなんて本当に買ったは良いが博士課程でのアカハラとコロナ禍で全然遊べてませんでした。
遠出では、千葉に行ったついでに色々散策したり、早稲田大へ初訪問したり、香川へ行って金毘羅さんや小豆島へ行ったりしました。年が明けて松山の御城や道後温泉にも行きました。松山から高松まで特急電車の旅もしました。
出張続きで疲れてた&やることが詰まってたんだろう7月は除くと、月に最低一回は必ずどこかへ行ってました。
筑波大学の対応の続き
筑波大学側は前回の記事の通り、公益通報を揉み消してきました。しかし、このまま泣き寝入りするなど絶対に受け入れられる話ではありませんでした。ここまで大学と戦うような形になって、私自身がもうだいぶ消耗してしまっていましたが、ここで引っ込んだら大学や元指導教員の思う壺でした。どうにかしてこの狂った状況を是正すべく、可能な限り元指導教員が常勤である間に適切な処分が下されるようにするにはどうすべきか考えました。大学の言い分では、どうしてもハラスメント相談に移行させたいというようなことを延々と言い続けており、公益通報とハラスメント相談は別窓口で別対応であるということも言ってきました。この事を踏まえて、弁護士相談の際の話(基本的には大学側に対処させるべきであるということ)、そして、自分がもう元指導教員と直接的な上下関係にはないことを勘案した結果、大学にどうにかしてこの件の対処をさせるには事実上の異議申し立てとしてハラスメント相談に移行するしか無いという結論に至りました。もちろん、私自身、それをすることで元指導教員がこの業界のドンである以上、不利益を今後被る可能性はゼロじゃないですが、兎に角そうなればもう弁護士を付けて戦う、という覚悟で、今は常勤である間の是正を第一として、そのようにしました。
大学にはもう間接的上下関係も解消されたと言い、大学側の言う被害者側が完全に分かる形で、被害者保護の形もあくまで学内の規定に基づいて調査されるという受け入れがたかったことに了承して、調査を進めるように促しました。
まあ窓口が異なると言っても大学側では部署は公益通報とハラスメント対応でワンセットとなっており、中身は一緒と考えて差し支えないであろうものでしたが、改めてこちらを手間取らせるかのように証拠などの一つ一つの確認が入りました。この大学の形式に兎に角乗せて被害者を従わせる形が、とても高圧的で、心底不愉快かつとても被害者の心情に寄り添うものではありませんでしたが、さっさと対処をさせたかったので兎に角それをはいはいと言って進めました。
向こうの相談員は私が前年に面談を受けた際に極めて高圧的だったため、その旨伝えたところ、その相談員は出席していましたが別の人(教員)が質問等をし、問題の相談員は一切喋らずに記録する形となりました。
ただ、その教員もまただいぶ前時代的な人で、私の被害の話や録音を聞いたうえで「相談者が質問内容をその場でまとめるのが苦手なため、行為者が感情的かつ一方的な発言をしている場面があった」などという明らかに元指導教員が優位に取れるような所見を書いてきたりしました。録音と私が相談記録票に記載した元指導教員の行為内容が明らかに、侮辱と人格攻撃を含んだ詰問であり、相手の意向に沿わなければ激昂する姿も、こちらがそれを繰り返された結果萎縮している姿も、しっかりと録音データに記録されているにも関わらず。
流石にそれは「元指導教員が繰り返し個人攻撃を繰り返すため、まともな回答ができなくなってしまった」ということを入れるように申し入れたものの、その際も「相談者が述べていただけであるが」という趣旨の余計な一言を添えてきました。
そういう人がハラスメント相談の担当をしている時点で、本当に筑波大学のコンプライアンスは極めて劣悪あるというのは自明でしたが、たとえ悪い方に転んだとしても、少なくとも大学がこの件について全く対処しなかったという証拠を残すために必要なことであると考え、進めてもらいました。
なお、相談記録票には6ページに渡って、具体的かつ詳細にほぼ日付付きで、こちらがされたことを書き記しました。通常はどう考えても録音もメールも証拠が出揃っている以上、これを全く対処しないということはできないはずです。
この記録票を提出するまでも数ヶ月掛かりましたが、それを終えて、ここから更に1か月以上経って私への事情聴取がありました。
実は相談記録票には、私がハラスメント行為を受けるはるかに前から継続的に元指導教員がハラスメント行為を働いていることを書き、他にも被害者がいる旨を記載しました。ここで、できる限りその他の被害者に対しても事情聴取を行うということを言われましたが、聴取に応じて頂けると回答していた先輩に対して、私の事情聴取から1か月経っても大学側が聴取をしていないということを確認しました。
ここから今日まで半年が過ぎていますが、未だに筑波大学からこのハラスメント相談の結果は来ていません。もう既に元指導教員は退官記念パーティーまで開いて、常勤教員を去る3月に退職しました。
華々しく去ることを許したことに、心を痛みます。あれだけの悪質なハラスメント行為を、私の入学以前の学生の頃から継続的にしてきた人間に対して何一つお咎めがなく、このような結果になっていることはとても受け入れられません。
しかし、私だってこの間、大学側にハラスメント行為に関する元指導教員の処遇の全てを握らせ、何もしていないわけでただ指を加えていたわけではありません。これもまたものすごく勇気のいることでしたが、複数のメディアに本件についてリークしました。リークすれば私の身元が割れて、不利益を受ける可能性だってありましたが、そんなことよりもこの理不尽な状況に甘んじていることの方が余程将来に渡って後悔することであり、社会を正常化するためにも必要だと思いました。それに、既に筑波大学は公益通報を揉み消しているわけですし、私は既に本件について文部科学省に二号通報もしていますから、それを三号通報としてメディアにリークするのは正当な公益通報です*3。
メディアリークは年を跨いでからのを含めて、読売新聞、産経新聞、朝日新聞、毎日新聞と大手4社に加えて、皇室の方が入られている大学での出来事ということの重大さから、国外メディアのBBCにも行いました。
しかしながら、どの会社からも少なくとも数か月、長いところでは半年以上経っていますが、どこからも返信のメールは来ていません。
公益通報をメディアすら取り上げないというのが現実であり、今日の日本です。その事実を突きつけられてものすごい絶望感しかなかったです。
もっとも、今は冗談抜きでもう悟りを開いています。絶望には変わりないですが、それによる鬱状態からは脱しました。それはこの後の30歳になった現在の人生観のところに書きます。
総括:20代を振り返って
20代の前半は最高のスタートを切って華々しかったですが、後半は最悪でした。
今思えば、学部時代には博士課程の先輩で指導教員の教授とバチバチになりながらも師弟関係を維持している人もいました。社会人になってからも、目上だろうがズバッと言ってしまうタイプで、それでも受け入れられてる人のエピソードを聞きました。少し小生意気に思われようが、それで良かったんだと思います。
あまりにも辛い20代後半だったけど、人生選択の教訓として、今後の人生の軸になっていくんだろう、というか、していかなければいけないと、振り返っていてものすごく思い直しました。
そうじゃなかったら、自分の身を自分で守ることはできないし、幸せにはなれないので。また不幸になってしまうと思います。
日本国内で見たらそういう理不尽はたくさんあるんだろうけど、広い視野で世界全体で見たときにそういった理不尽が果たして我慢すべきものなのか、と問われたらそうは絶対にそうではないはずです。むしろ今まで日本でそういったことが問題になんなかった、揉み消されてきたことが異常なんですよ。
日本の中だけのちっぽけな世間体に囚われたり、自分に嫌なことしてくる相手の迷惑なんかよりもずっとずーっと、自分の身を守ることや自分の人生を無駄にしないことのほうが大事で、何より自分が楽しく過ごせることが一番だと、20代を振り返ってみて切に思うし、実感し直しました。
もちろん、これは未来の自分が失敗しないためのメッセージですが、他の人がこれを見たときにも人生がより良くなっていく方向に少しでも後押しできたら幸いです。
30歳になって、20代を経た人生観
心境は変化するものなので、今そう思ってても時間が立つにつれてその悟りが発展していくかも知れないですが、それなら一層、記録しなきゃいけない気もしてくるので、前回の記事で悟りと書いた、20代を通したうえでの今のこの30歳の心境を書いていきたいと思います。
何度も自殺を考えたり、死に関するコンテンツ(鉄道自殺の動画や焼身自殺の事件など)を見てきて、生と死は常に隣り合っていて、死というのが身近な存在になりました。
本当にどうしようも無くなったら死ねばいいし、死んだら結果は何も関係なくなる、死んだらみんな一緒だと思うようになりました。
もっとも、この考えでちゃんとしっかり軸を持てるようになったのは今年の3月以降ですが。
こう考えるようになってから、将来の、比較的遠い未来のことならまだしも、目の前の今置かれてる狭い環境(職場や研究室など)での、私が行動した結果によって想像される直近の不利益なんてどうでも良くなってきました*4。どうせ死んだら同じ、関係なくなるので。
そう考えると、目の前で今やろうとしていることがもしかしたら失敗するかも知れないというリスクや、私が20代の頃に実際に言われ、直面していた指導教員に歯向かったら学位審査を落とされるかもしれないというリスクなんてどうでも良くなってきます。当時はそれこそ「こんなに嫌な思いをし続けて来て学位を取らなかったら損」だと思っていたし、それがあったからこそ取れたのかも知れないですが、それで今こんなにメンタルの不調が続いていて不幸になってるんだから、あの時通報しても、突然ブチギレて机をひっくり返して暴れても、大声で罵詈雑言の仕返しをしても、その結果学位を取れなくなっても、退学しても、筑波大まで行ってセンター長室を爆破して焼身自殺しても、失敗したら死ぬ覚悟でそれら全部やっても、全部同じだったかも知れないです。なんならそれで死んだら全て終わらせることができて今よりも幸福だったかも知れない。
本当に、日本語を喋れるだけの畜生どもの自分勝手な都合の押し付け合いに巻き込まれて、その場の空気感を壊さないようにする縛りゲーを自分からわざわざ続けるのは馬鹿みたいでした。馬鹿みたいでしょ?
どうせ死んだら全部終わり、死ななかったとしても幸せになれない。
だったらそんなのは、常に自分の都合しか考えることができない畜生どもに配慮してそんな縛りゲーを続けてる必要なんか何ら全く無いです。もっと自分の立場を守っていいんですよ。喧嘩することも戦うことも悪いことなんかじゃない。正義っていうのは立場によって変わってくるし、相手の中ではしょうもない己のエゴに都合が良いことが正義だとしたら、当然こっちの正義を主張して守んないといけない。
そうしなかったら、死んだほうが幸せかもしれない。
親が私の命よりも世間体を優先するような家庭で育ったのも相当の悪影響があったと思います。
ちょっとアメリカナイズかもしれないですが、世界を広く見渡して見た時に、世界の常識からすればこんなのは当たり前で、戦後の日本の空気感が異常なだけでした。
今それも変わってきてます。
以上、自分が振り返った時に、自分に言い聞かせようという強い意図で書きましたが、もし他人の都合によって人生が不幸になって悩んでいる誰かがこれを読んだときに、役に立てば幸いです。
