PentiumMノート現役で使い倒した

日常や旅行や気になったことや技術的某について記録するブログ。ブログ名は原点回帰しました。

20代最後の年、20代の振り返り(その1)

以前の記事の続きで、20代の振り返りも書いていきたいと思います。

ちなみに、序章にあたる以前の記事は8月公開になってますが、あの記事を公開した時点で既にこの記事の大方は書いたものの、途中で忙しくなってしまい筆を置いていて(まあ書いたものを編集して記事にする労力がそれなりに掛かるだろうという見込みが立ってしまったこともあるんですが)、気付いたら5ヶ月経っていて、先月ついに30歳になってしまいました。今この箇所は令和8年1月の正月に書いています。
正月だと時間があるからようやく時間を気にせず書ける、というよりはこの時間を気にしなくていい間に書かないと一生書き終わらない、と思い、重い腰を上げてようやくまた編集を再開しているというわけです。トホホ…。

タイトルは最初「20代最後の夏、20代の振り返り」にするつもりでしたが、もう夏じゃないので「20代最後の年」にしました。
実は書いていたらその途中で、失われた20代を説明するのに博士課程のことを結構書くことになるなと思ったので、別記事にしようと思ってた記事タイトル「博士号を取った今、博士課程を振り返って」と合わせてみようとしました。が、5ヶ月経って考え直してみて、やっぱり博士課程の良し悪しに焦点を当てた記事はまた別のところに書いてもいいかなと思うに至ったので、一周まわってこの記事ではこのタイトルで、私の生活や人生に焦点を当てたうえで博士課程も含めた20代全体を振り返りたいと思います。

長くなったのでその1(20〜25歳になるD1まで)からその2(D2になった25〜26歳まで)、その3…と複数の記事に分けたいと思います。

高専時代

高専時代はほぼ10代ですが、5年生についてはちょっと触れておきます。平成27年度、西暦2015年のことです。当時の研究室はなかなか性格が終わってるやつも居たりして学生メンバーはあんまり良くなかったですが、今思えば、みんなそれなりに元気があって大学院のあの、みんな自分のことで手一杯で人的交流もなく目が死んでた研究チームより100倍マシでした。それに当時は先生の予稿やスライドの赤入れが多くて、卒研やってる感を出したいがために中身が無い指摘(スライドの色とか、とか…結構もう忘れてる)をただただひたすらしている感じがしていて評価していませんでしたが、今思えば週1で一人ひとり回ってわからないところや詰まってるところが無いか聞いて、足りない部品を言うなり、わからないことを聞くなりすれば支援してくれてたので、研究サポートをする先生としてよく立ち回ってくれていて、その点では学部も含めた中で最も理想的な研究室でした。とはいえ、高専は総じてオープンさや真の自由さはなく、閉塞的であったと思います。

でも、入学式は震災で縮小されましたが、卒業式はちゃんと猿江恩賜公園のティアラこうとうで盛大に行われました。終わりはよかったです。

大学学部時代

大学は3年時編入です。なので、大学進学が20歳のときでした。つまり、20代の始まりは最高のところからスタートしました。大学(学部)自体、それまでの高専以前と違って傷害罪上等の類人猿や人間モドキと呼ぶべきヤバいのは居なかったし、みんなちゃんとしてて、すごく日々の密度も濃くて、とても2年間とは思えないぐらい刺激的で長い2年間でした。実際に大学院の5年間よりもこの頃の2年間の方が長く感じます。たった2年間しか居なかったのが信じられないです。色んな貴重な体験をしました。

何より、本土から離れられたのが解放的で良かったです。沖縄はウチナータイムとかよく言いますが、本質に欠けたなんのためかもわからない競争社会や学歴階級みたいなものはなくて、大学も学びたい人だけが学びに来るという感じでした。そういうのがないから都道府県民幸福度全国一位で、みんな幸せなんだろうと思います。だから意識が低くてなんのために大学に入ったんだこいつ、みたいな人は全然居なかったし、みんなそれぞれ学ぶ意欲があって、意識も高かったです(意識高い系ではなく)。そういうところに居て、本土、首都圏の本質を失って就職のためだけにいい大学の看板を手に入れようとする狂った感覚から解放されて本当に大事なものは何か、どう過ごすべきか、自分を見つめ直せるすごくいい機会でした。東京にあのまま居たら間違いなくそういったことに気付けず、自分も含めた周りの感覚の異常さ、本質のなさに気付けず大勢の中の一人として埋もれ燻り続けていたと思うので、私の人生にとって最も必要な日々だったと思います。本当に良かったです。沖縄に居た20〜21歳までは。

加えて言及するなら、実は学科の卒研生に対するハラスメントが発生する事態がありましたが、問題として対応していたのも良い環境でした。比較的小さい学科だったのもあるかもしれないし、一応その問題の教員が外様の教員だったのもあるかもしれないですが。
その研究室というか教員は学科所属ではなく情報基盤センターみたいなところだったんですが、学科協力教員みたいな感じのポジションだったので、学生配属がうちの学科からされていました。しかし、私が大学院で受けることになるような、学生に否がないところで悲痛なハラスメント繰り返されており、学科の教員会議が開かれた結果、その研究室には以後学生を配属しないことになりました。私の大学院生時代の大学のような問題を揉み消そうとして全く対処しない大学もある中で、こういうふうにまともな感覚の大学にいれたのは、未だに人生に良い影響を与えている大事な経験でした。

大学院修士課程

そこから大学院に進んでからが地獄の始まりでした。ただし、進学したことによって今があるので行かなければよかったとは今のところ思ってません。今後そう思うかもしれない可能性は否めないですが、もしそっちの方を強く思うようになってしまったらいよいよ全く比喩ではなく本当に自殺すると思います。今後も行かなければ良かったと思わないで済むことを願いたいですね。
ここは5ヶ月前はこう思っていたみたいなのでこう書いていますが、5ヶ月後の年明け直後の今、進学したことについての肯定感が薄れてます。まあ半年以内でもこうやってその時思ってたことが変わるわけなので、だからこそ、20代最後の夏として記事を書いたのは正解だったし、記録は大事ですね。今振り返ったって5ヶ月前に今よりずっとポジティブに思っていたのをこの文章を見るまですっかり忘れていたぐらいなので。
まあ、博士号を取ったことで今のポジションに居るのは事実なわけですが、なんかこの先こうやってこの博士号のお陰で得たポストに居続けて(またはポストのことは一旦抜きにしても博士号を取ったことを今後活かして)幸せになれるのか、っていうのが見通せないなぁと思って来ちゃってますね。この間何があったかっていうと、10月頃に次の就職先の話が出てきて、それで少しゴタゴタがあったので、それが原因だったりします。嗚呼、この先もあの大学院生時代の地獄みたいなものが繰り返すかも知れないんだなぁとちょっと頭によぎることがありました。嫌だなぁ。死のうかな。
まあでも、まだ大学院に行かなきゃ良かったというのが結論となるには至っていないし、少なくとも修士課程に限って言えば進んで良かったと今でも言えるので、この先次第ですねー。未来は誰にもわからない。私なりにやりたいこと可能な限り全部できるように今年は去年よりもっと頑張るつもりですが。

修士課程も色々とありましたが、それでも前座の前座でした。なんかこのブログにも色々書いたような気がしますが、他の学生からハブられたりとか、そもそも風通しが悪くて研究室そのものの空気感が悪く、いや、悪いという言葉で終わらせるべきではなく、挨拶すら無いような環境で、そもそも研究室の体を成していないと言っても過言ではない状態でした。全くもって健全ではなかったです(補足として、研究室と呼びますが、厳密には大研究室の中にチームと呼ばれる小研究室があるシステムだったので、チームの話です)。

修士時代ももちろん指導教員から理不尽に怒鳴り散らされたり、こちらが全く把握してないことでミス扱いされたり、忖度しろというようなことを言われたり、研究で困ってることがあっても他人に聞くななどと言ってきたり、それはそれはもう散々でしたが、修士時代は周りも同じように嫌な扱いを受けていて(言い方が悪いかも?ですが、分散されていて自分が集中砲火されてる感じではなく)、博士課程の頃ほどのプレッシャーはなくてまだ自由に動けていたため、博士時代に比べれば健康でした。健康に関して言えば、メンタルだけでなく、体重がD進してから急に増えたことに如実に現れています。あと、いくら指導教員が本当に終わっていて、研究室の体をなさない不健全さであっても、修士時代の時点では、大学でしかできないようなすごいお金のかかった機器、具体的に言えば数百万円するGPUやFPGA、それを搭載したスパコンを触って研究することができたので、そこには恩恵を感じていましたし、いる意味はあったとは思います。得られるものは自体は十分にありました。

大学院博士課程

D1

ただし、D進してからは話が全く変わってきました。
博士課程1年の4月にコロナ禍に入って完全リモートになりました。リモート自体はかなり自分の性に合っていて良かったです。また、リモートが大学側で認められていなかったら比喩ではなく自殺してたと思います。

D進してから「博士だから他の学生よりも厳しくする」などという発言が出てきました。また、それまで一緒だった同期は全員修士で就職してしまい、博士課程へ進学したのは私一人だけでした。つまり、D進してからそれまで分散していた指導教員のストレス発散のはけ口が自分に集中するようになりました。

指導教員は相変わらずハラスメントのオンパレードでしたが、国際会議で発表することになりました。しかし、ここでやり取りをしているときに指導教員の修正箇所の指示がわかりにくかったため一部反映し損ねてしまいました。そしたら、自分の指示の仕方は棚に上げて「俺の時間を奪うな」「やる気ないのか?」「俺なら一字一句すべて確認するし、いつもそうしている」「俺が直したんだから全部反映させるのは当たり前だろ?」などと言われまくりました。今まで一応学生のためにやってくれているところもあると思ってそういう過剰なパワハラ発言について大目に見ていたんですが、これはどう考えたって教員が忙しいことへの八つ当たりだし、学生の立場が弱いから何言っても構わないという当てつけでしかなく、ここで指導教員のへ信頼は地に落ちました。何より、「俺はできている」という発言は全くの大嘘で、実際の指導教員からのメールやメッセージは誤字脱字だらけでした。
もちろん既にこんな指導教員を人として尊敬していませんでしたが、自身のストレス発散のためなら嘘でも平気で吐いて他人を貶めるんだなと心底嫌悪感を覚えました。

それからというもの、何か指導教員の意向と異なるミスリードがあればそのたんびに怒鳴りつけられ、能力が低いだなんだと罵声を浴びせられ、侮辱される地獄の日々が続きました。ハラスメントは日に日にエスカレートしていくばかり。周りは教員を含めて完全に指導教員の支配下なのでみんなイエスマンで、途中までは会議のときにポスドクの人が助け舟を出してくれたりしていました(感謝しています)が、そのポスドクの方も途中から転職され、研究室を完全に離れていきました*1

さらに、この国際会議は予稿をリバイズして論文投稿できるという仕様になっていましたが、論文投稿を指導教員に阻止されました。論文は一旦予稿を加筆修正して提出し、条件付き採録で返ってきました。しかし、指導教員からこのまま論文が採録されると学位審査の要件を満たしてしまうことが気に入らないと言われました。理由は「こんなぬるい内容で通したくない」「こんなぬるい内容で通るようなジャーナルに出したくない」ということでしたが、実際には(その後の発言を総合すると)もっと苦労して取るものだ、プロジェクトへの成果をもっと出してもらわないと俺(指導教員)が困る、というものでした。それで、この条件付き採録の結果を見た指導教員はこんなぬるい論文誌に通したくない、ハゲタカだなどと言い出して、論文投稿を取り下げるように言ってきました。

そもそもの話ですが、この論文誌は国際会議の特集号で、一回会議の査読を通過している論文をもう一回査読することになるので、採録までのハードルが低いのは当然のことです。なので、こんなのは指導教員の詭弁であり、実際には指導教員が気にいらないから論文を出させたくなかっただけなんですが、当時の私はD1で、そんな論文投稿のことを俯瞰的に理解できるような知見が無かったですし、周りの大人もイエスマンでそれについてなんらかの適切な発言をしてくれることはなかったので、そういうもんなのかと思っていました。今思えば明らかなアカハラなんですが*2

以降、その2に続きます。

02yutori16.hatenablog.com

*1:転職される直前にポスドクの方の発表練習があったが、指導教員の指摘の内容は完全にマイクロマネジメントで酷い内容だった。

*2:ちなみにこのあたりのことは2度、形を変えて大学に報告していますが、そのあたりの話は後の記事に書きます